DEPARTMENT OF INFORMATIQUE: VISUAL COMMUNICATION DESIGN | MEDIA ARTS|映像コース

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映像コース

学生×教授対談 小林香織(4年)×加藤到 准教授

加藤
映像っていうのは、高校までに授業がないから大学に入って初めて体験する授業なわけ。そうすると、こんなこと学びたかったんじゃないって頑固に拒否しちゃう子と、映像はこういうことでもあるんだぁって柔軟に受け入れる子の2種類のパターンがあるかな。頑固であるよりも柔軟な方が得だよって言いたい。でも、一方では(特に高学年になると)誰が何を言おうが譲らない頑固さみたいなものが必要になってくる。だから、柔軟さと、譲らないこだわり、それを両方をうまく使いこなして、結果的にそれが表現として作品に出てくると、かなり面白いものが見えてくるんじゃないかな。
小林
そうですね。そういう意味では、私は3年生ぐらいの時の作品が一番自由に作れてて面白かったです。最近は人の意見を聞きすぎてしまうことも多いですが。
――
映像コースを選択した理由
加藤
映像コースで学びたいと思ったという事は、映像に対して何か魅力を感じてたから?
小林香織(4年)×加藤到 准教授
小林
そうですね。本当は絵が描きたくて美術科の方を受けようとしたんですが、絵を描くのがただ好きなだけでは何も成長しないなと思った時に、何か新しいことにチャレンジしてみようと思って受け直したんです。でも結果的に良かったです。やっぱり楽しいし。
加藤
その頃好きだった映画とか特にあるの?
小林
ディズニーですね。
加藤
でも1〜2年生くらいで次から次へと見せられる映像作品はディズニーとは全く違うじゃない。
小林
そうですね。2年生の時に実験映画やドキュメンタリーを見せられたことで、いろんな人がいろんなことを考えてることがわかったんです。それを知って世界が広がったというか・・・。カメラの動かし方とか手ブレしているのに何でこんなに泣けるんだろうって。小手先の技術よりもっと大切なことがあるんだ、なるほど!と思いました。
――
作品を作る技術について
加藤
芸工大の一部のCG作品のレベルは、世界的に見ても突出したところがあると思う。表面的な技術力やエンターテイメント性だけではなくて、CG表現そのものに芸術的価値を切り拓いている。ちょっとほかに類を見ないすごいとこまで行ってる気がする。どうしてそういう状況が出来たかというと、写真やビデオと一緒に合評(合同講評会)をしてるからだと思う。特に写真。ちょっと前までは写真というジャンルはそもそも芸術として成り立つのかという問題があったけど、今は誰も疑いを挟まない芸術表現の一ジャンルとしてあるわけだ。写真の表現領域が「芸術的価値」として認められている。後発のCGが現代写真と同じ土俵で合評されることで、CGもまた芸術としての自覚を問われることになって来るわけ。
CGだけを教えるところと作品に対する見方が全く違うんだよ。この大学のようにCGが写真やドキュメンタリーと同じコースの中で扱われることは、他大学を見渡して考えてみても特殊なことだよね。学生はそれが当たり前だと思ってるけど。
小林
それを刷り込まれていますね。
加藤
それには当然善し悪し両面があるから、無理がないわけではない。でも結果としてこれでいいんじゃないかなという気がしているんです。
小林香織(4年)×加藤到 准教授
小林
ビデオ作品って、観客に対しての見せ方が規定されていないので、自由である反面、リスクも感じてしまいます。映画なら映画館という会場が前提ですし。写真の場合はギャラリー展示したり写真集を出版したりと作家ごとに発表スタイルを厳密に選択している。ビデオの場合は、どうすればいいんだろうって考えちゃうんですよ。
加藤
展示の会場や仕方で全く意味が変わってくる作品と、どういう場所でどういう風に紹介されようが大して影響を受けない作品があると思う。上映会場を作家自身がデザイン出来る場合はともかく、作品が作家の手元から離れてしまったら、ビデオプロジェクターで大きく映写して見る人もいるかと思えば、小さなモニターで見る人もいる。だからそのことを覚悟した上で、打たれ強いものを作っておく必要もある。
小林
重要なのは「音」だと思うんです。音がよく聞こえるか聞こえないかで、作品に感情移入できるかどうかが私の最近の結論です。
加藤
そうだよね、音も大切だし、言葉がどのくらい聞き取れてるかっていうことも重要なことだしさ。音の良し悪しで作品の印象は全く違ったものになってしまう。
小林
だから細部まで良く聞こえるにこしたことはないんだって。
加藤
ところで、小林さんの卒展は?
小林
ドキュメンタリー・・・ドキュメンタリーとは違うかもしれない、ドキュメンタリーっぽいやつ。ビデオで自分の周りの環境、出来事を題材にして話を膨らませる方向に行っています。今回は私が卒業した高校が取り壊されちゃう話です。
小林香織(4年)
加藤
ドンキュメンタリーかフィクションかという問題はボーダーがない話。特に最近は、ボーダーを作ること自体無理だって事に皆、薄々気づいている。昔は雨が降る映像で、客席で傘さしたりして映像を信じちゃってたわけでしょう。でもそんなのは今の21世紀ではありえない。今、小林さんの表現したものもがドキュメンタリーかフィクションかに分けることは出来ない。自分をどうやったら表現できるだろうって素直に考えっていった結果が形になると思うんだ。そこで話が一番最初に戻るんだけれど・・・。
小林
柔軟さとかたくなさ?
加藤
一年生の時にディズニーとの違いを感じながらも、ドキュメンタリー作品を受け入れた小林さんが、今、かたくなに作っているのは期待がもてるじゃないですか。卒展で大傑作ができれば、成功した例の典型になる。卒展でじゃなくてもいいけれど、(自分の壁を)越えながら作っていって欲しいんだよ。
――
卒展での展示の兼ね合いや工夫はありますか?
加藤
映像コースは、写真、ビデオ、CG、インスタレーションと4種類あって結構大変なんだよね。映像コースとしては以前の美術館と映画館でのスタイルの方がやりやすかったみたい。今の形はちょっと・・・。映像とくに時間軸を持っている部分では他の学科と足並みが全然違っちゃう。でもしょうがないんだよ。大学院生のレビューなんかでも持ち時間が一人15分とか20分とかでやっているでしょう。作品が20分あったりすると、冒頭の5分間だけ見てもらってから質疑応答に移りますとか言ったって、そんなの絵画の左下半分だけ見て合評するようなもんでしょ。
小林
この辺考えてもらえないんですかね。
加藤
時間軸を持った作品の場合、現状では仕方が無いんじゃない?一般的にも映像は後発の若いメディアだから先行するメディアのスタイルに合わせざるを得ない事が多い。現代美術のコンペの中に映像作品が含まれる時なんかも、厳密に言ったらとんでもないやり方で処理されてしまっているんだな・・・。卒展の場合、こども芸術劇場で上映されるレイトショーをじっくり見てもらうのが一番だね。
小林
時間的拘束が、ある意味醍醐味なんですけどね。映画館という空間があんなに拘束されてしまっている場であるにもかかわらず、その拘束を逆に楽しんでしまっているのだと思うんです。山形映画祭の時に思ったんですよ。映画館ってすごいんだなって。
加藤
そうだね。だから逆に、映画が終わって拘束が解けると猛烈に誰かと語り合いたくなる。そこが映画祭の魅力でもあるわけだね・・・。
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