東北芸術工科大学学長就任記念

松本哲男展|鼓動する大地

「芸術は人なり」 徳山詳直

「こういう男の描く絵とはどんなものだろうか」と、ここ十数年見てきて、今、この人の堂々たる瀧の絵を眺めていると、なるほど、腹の底から唸り声を上げたくなる心持ちです。この人にして、こういう雄大な絵を描く。その松本哲男の人格が、今の若者たちに与える影響を思うとき、この時代に、大げさなことを言うようですが、人類救済の理念は、「芸術する心」の広がりにあると、ますます強く思えてなりません。『東北ルネッサンス』を掲げるこの大学の、未来を託すにふさわしい学長が見つかったと思っています。

世界に目を向けると、相変わらず戦争で小さな子どもたちが殺されています。また、貧しくて生きながらえることのできない子どもたちも、この地球上にたくさんいます。そして、平和なはずの私たち日常の周辺でも、日々痛ましい事件が起きている。そうした状況の中で、いったい芸術家たち、芸術を志す若者たち、あるいは芸術そのものは、どういう役割を持って、具体的に、おのおのの仕事に取り組むべきなのでしょうか。

東北の風土に立つこの新しい大学に、これから松本哲男先生が関わってくれる。このことは、私が持ち続けてきたこの問いに対する、この疲弊した時代に対する、救世的な意味を持っていると信じたい。松本哲男展「鼓動する大地」の会場で、この思いが確信に変わることを願っています。
[東北芸術工科大学理事長]


「逝くものはかくの如きか」 芳賀徹

foogaという雑誌が「爆音水飛沫」と題して松本哲男氏の瀧の絵の特集をしている(2005年12月号)。それを買ってきて眺めていたら、一節に画家の言葉が引かれていた。
「地べたにどかっと坐り、土の温もりや大地の鼓動を肌で感じながら自然の営みを感じ取る。自分の視点を地面に近づけるほど空気の広がりを感じる」
「どこにも焦点がないものは、全部描けばいい」
実にいい言葉だ。図太くて、豪膽で、また克明で精緻な画家松本哲男ならではの、真正直な言葉だろう。
東北藝術工科代大学の七階のギャラリーで、私ははじめてこの画家の「三大瀑布」の巨大作を見た。そして右の言葉がそのままこの野生児の虚飾のない本音であり、現場での実体験であることをさとった。
いわくアフリカの『ヴィクトリア・フォールズ』いわくブラジルの『イグアスの瀧 。そして『ナイアガラ』。前者二作はいずれも高さ220cmで横は12mにも及ぶ。
よくもこんなでかい絵を、しかも筆の一触一線克明に描きつくしたものだと、まずその心身のエネルギーの強大さに仰天せずにはいられない。
距離をおいて眺めれば、ほどんど360度に近い原始の大地と水の大空間が、私たちを包攝してくる。昼夜をおかぬ大水量の轟音がひびいてくる。そして画面に近づけば、たちまち霧が顔に迫り、水のしぶきが襲ってくる。
松本氏はまだどこかで、これれ山水の大作を描き終えてしまうと自分がまた独りぽつんととり残されたような気がする、と語っていた。さもありなん、と思われる。大自然の豪力と対決し、それを画中に奪いとり、描きつくしながらそれに帰依し、そのなかへと自己をほとんど無にしていったあげくに、完成した途端、その画面の外にはじき出されている小さな私。
それは、これらの大作に見入っていた者も、最後には経験せざるをないものだろう。大自然に直面したときの人間の矮小さの再自覚―――― それをひしひしと促してくるのが松本哲男氏の連作である。
清少納言の「春はあけぼの」に名を借りるわれらが京都造形芸術大学の「ギャルリ・オーブ」――――― ここに『ヴィクトリア・フォールズ』などがならべられたとき、それはまたどんなふうに見えてくるのか。楽しみだ。そしていつか、本学の千住博氏や菅原健彦氏の大画面とならべて、「たけくらべならぬ」「瀧くらべ」をしてみたら、これまた大いに面白いことだろう。
〈記―― 孔子は川のほとりに立っていった。「逝くものは斯くの如きか。昼夜を舍かず」と。論語「子〇第九」〉
[京都造形芸術大学学長]

ギャラリートーク風景(山形展)|『地球をまるごと描く』 松本哲男/4月1日[土]14:30−16:00

展示風景|『月明(ナイヤガラ)』/東北芸術工科大学ギャラリー

上:ギャラリートーク風景(山形展)|『地球をまるごと描く』 松本哲男/4月1日[土]14:30−16:00
下:展示風景|『月明(ナイヤガラ)』/東北芸術工科大学ギャラリー

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