美術館大学を構想する、「良心」と「Locality」

酒井忠康[美術館大学構想委員長]

美術館大学構想に携わったことで、私はこのごろ「美術館」と「大学」との相違点についてよく考えています。まず、学校というのは毎年新しい人が入ってくる循環作用があり、絶えず出会いと別れを繰り返します。美術館にはそうした循環性は存在しません。美術作品は美術館に収蔵されると、時代との連動性をある意味では消失し、「モノ化」してしまうのです。けれどもその反面、美術館で開催される展覧会は、鑑賞者の記憶に、ある種の感動を引きずって残っていくことがあります。

大学にとってもっとも重要な財産は美術やデザインを学ぼうとする、意欲的な学生たちです。私の考える「美術館大学」とは、高価な美術品を収蔵することよりも、良質な展覧会やシンポジウムの開催を通して、感動をきちんと伝えていく、芸術的感性の伝播を試みることです。優れた展覧会やシンポジウムを大学で開催することができたら、卒業していく学生たちの人生の大きな糧になると考えたのです。

しかし、教育機関で展覧会をつくりあげていくには、いくつかの問題と向き合わなければなりません。まず、大学の教員はあくまでも教えることが専門であって、毎回の展覧会をオリジナルで運営できるはずがない。どこかで前年の踏襲のような、前にやったことを多少変化させた内容になってくる。日本は「おさらい」の国だし、免許の国ですから。そして、文化や芸術を「継承」することに重きをおく国ですから。これは、ある部分では美術館も同じです。高度成長期とか景気のいい時代には、まず「箱」としての美術館を建設して、中身や地域社会とのコミットについては後回し、という傾向がありました。その結果、今日では社会における美術館活動のトータルな存在意義が形骸化しつつあります。大工はたくさんいるけれど棟梁はいない、という感じです。設計図だけはあるから家はできる。箱があるし、予算もあるからカリキュラムや展覧会スケジュールは組める。けれども、そこに「魂」が入っていかないのです。例えていえば、今は木を平気で切りますが、昔はちゃんとお神酒をかけて、お祈りしてから切っていました。今やそれは迷信です。命あるものを切る上での礼儀が失われている。つまり、何を残し、何を削るべきかをきちんと判断する、経験や伝統に裏打ちされた哲学が曖昧なのです。

それから経営の問題があります。山形市の人口25万は、美術館ではかなり苦しい数字です。これが80万〜100万あれば、状況はまったく異なります。東北芸術工科大学でも、仙台にサテライトを開設し、近隣の都市エリアまで範疇に入れて企業としての大学経営を持続させようとしています。徹底的にマーケティングにこだわるのならば、教育活動の副産物である伝統工芸とか、プロダクトデザインを、大学と都市部の間で流通させるシステムを構築するなどの方策もあります。けれども、そういう市場経済への大胆なシフトチェンジには、美術館も大学も、まだ躊躇があるようです。

格差社会・構造改革の時代にあって、この二つの、日本の文化を担う公共的な場の形骸化と、経営の困難さは、私たちの社会における本質的な問題です。しかし、それでも、美術館大学構想のグランドデザインにおいては、私は、自分自身が美術館館長として大切にしている言葉=「良心」に、あえて固執したいと考えます。

あの福沢諭吉が亡くなったとき、アメリカの新聞は、「彼の生涯は"シンプル・ライフ"であった」と書きました。日本語に置き換えにくい、微妙なニュアンスなのですが、この形容はつまり、「変な野心がない人間」という肯定的なものだったと思うのです。時代や政府にへつらうことなく、自分独特の人生観を持って生ききった、ある種の「良心」に殉じた男、という意味だと理解しています。美術館にも大学にも、経営は確かに重要です。けれども感動を生み出すのは、あくまで「良心」であり、これを軸に、ある種、情操的に運営を支えていかないと、芸術文化や教育現場というのは、どんどん衰退してしまうのではないでしょうか。

東北芸術工科大学の存在とその取り組みが、現代日本のアートシーンで強いオリジナリティーと、「良心」を体現していく上で、不可欠なキーワードが、「ローカリティ=locality」です。山形を舞台とする本構想においても、東北の地域社会や風土に根を深く張提なのです。これは、本学の芸術教育においても同様です。美大志望者が予備校的なスキルを鍛えて偏差値を高め、東京や関西の名門校に入学しようと思ったら、自分の出自における感性の根っこを殺して、同じ土俵で勝ち抜いていかなければならない。ところが、ローカリティとは、自分の土地に執着したり、風景にまつわる、どこか不可解な理由でじっと思考し、立ち止まったりという、世界の認識の仕方に深く関わっていて、そういう資質を持つ学生は、どうしても偏差値はあがってこない。自分の中に基準があるわけですから。しかし、表現者にとって、これこそがもっとも重要な素地となるのです。経営的な観点を無視してあえて言えば、東北芸術工科大学はアートシーンにおける偏差値やヒエラルキーに従属する必要はまったくない。

どんな大河も、いろんな支流から水が集まって形成されるわけですが、現代はこの支流自体が、非常に不透明な状態なのです。つまり情報が多すぎて、本流になったときに、自らの出自、つまり、支流の確認ができないのです。「世界美術」といっても、何か焦点がボケてしまって、結局、国力のあるアメリカやイギリスとか、美術の伝統のあるイタリアやフランスが市場や価値をコントロールし、その他の周縁的な国は、本流に寄生するような鉱脈をたどることばかりしています。このような状況だからこそ、美術館や大学は、都市に本流が一極集中化する、地方の地理的・情報的なハンデを、犠牲的に支えていこうという自覚と覚悟を明確にすべきです。

例えば、本学と姉妹校の関係にある京都造形芸術大学は、都会の大学ですから情報のキャッチ力もあり、アートシーンをリサーチするには恵まれた環境にあるといえるでしょう。現状では、山形と京都で学ぶ学生のうち、10人の優秀なクリエイターが出たとすると、山形から出るのはそのうちの一名かも知れません。けれども、その一人は、長い目で見たら京都の九人よりもずっと上でしょう。これは土地が持っているもの、つまり風土の魅力や独自性、つまり、先述のローカリティーに関する、自覚の力なのです。

美術評論家として、私がもっとも興味深く研究してきたのが彫刻です。この表現領域では、作り手におけるローカリティーへのこだわりが、作品の善し悪しに決定的に作用します。美術館大学構想では、2006年度の企画展作家として、彫刻家の西雅秋氏を招聘し、『西雅秋│彫刻風土』展を開催しました。埼玉県の里山に工房を構える西氏の作品には、物質が溢れているこの社会で、彫刻をいかに「つくらない」ことからはじめるか、というメッセージを表現しています。教育の場において、西氏のような文明批評的な視点をもつ芸術家を紹介することは、極めて重要だと考えます。

時代や自分の属する土地と、自己との関係を意識しながら、彫刻を学んでいく必要があるのです。例えば、山形ならば、鋳物工場で実地学習をするとか、山奥に行って鑪たたらば場について「聞き書き」をしてくる、また、石切り場の発破などは実にダイナミックなのです。ありきたりな彫刻概念など、ひっくりかえってしまう。東北というフィールドをフルに活用しながら、「芸工大は基礎教育が違う。足腰が違う」と評価されるような、魅力的な実地教育を展開することが可能なのです。

それから、美術館大学構想では、年に1回のシンポジウムの開催を通して、横断的に芸術を語る、詩的な「言葉」のあり方を探っています。イギリスでは、特にオックスフォード大学は教育に詩学を積極的に取り入れています。私たちのプロジェクトは、特に、「美術館」という空間的な実体は持たないけれども、美術館大学を「構想する」というスタイル自体が、すでに詩学に近いものになってきています。これまで、藤森照信氏、吉増剛造氏、赤坂憲雄氏、芳賀徹氏、茂木健一郎氏、宮島達男氏をお招きしたシンポジウムは、最終的に、私の考える美術館大学の「良心」の持続を支えていく、思索的なバックボーンになると思います。

東北・山形における美術館大学設立プロジェクトは、この春で企画事業に着手してから3年目を迎えました。当初は、2007年度に一旦の集約を想定していましたが、まだその完成形というか、本流へつながる出口は見えていません。未だ、「美術館大学」の入口を、幅の広い、より大きな可能性を含んだ、魅力的なものにするための試行錯誤が続いています。ゆっくりと時間をかけて、頭を柔らかくして、時代や体制に迎合しない、ある品度を持った入口をつくりたいと考えています。
(2006年秋・世田谷美術館にて/採録・構成=美術館大学構想室)

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酒井忠康(美術館大学構想委員長)

酒井忠康 Tadayasu Sakai