大原美術館に学ぶ芸術の力と、美術館大学構想について
徳山詳直[東北芸術工科大学理事長]
今年(平成14年)の5月の連休に、私の故郷、日本海の隠岐の島へお墓参りに行きました。そこからいろいろ巡り巡って、岡山に入って、いつしか、あの倉敷の大原美術館に行っていました。かつて何度か行ったことがありましたが、今回何となくいつの間にか、倉敷の美術館へ紛れ込んだと言った方がいいかも知れません。
大原美術館は倉敷紡績という明治の初期に文明開化をうたってできた紡績会社が前身で、日本各地から集められた女工さんたちのいわば血と汗で稼いだお金で作った美術館です。私はこれまで、これはある意味で女工哀史のお手本だと思って、何となく手放しでは評価できませんでした。ところが今回、美術館に入ってみて、まず何に驚いたかというと、人の多さです。ともかく大変な人でした。人、人、人、人、全て人で埋まっていました。問うてみると年間500万人もの人たちが集まるそうです。
そんなことを見ているうちに、一体、大原美術館とは何だろうと考え、いろいろな資料を手に入れて、随分詳しく調べてみました。ここで驚くべき発見をしました。この美術館は、女工さんたちの血と汗で作り上げた美術館と思っていましたが、実はそれだけでは正しくありませんでした。明治40年に大原孫三郎という人が、弱冠27才で大原家の後を継ぎ、倉敷紡績の二代目の社長に就任しました。その次の年、彼が28才。明治41年に日本の明治政府が軍隊を強化して、軍国主義が華やかに出発し始めた頃、岡山に師団司令部を作ることになり、その一部連隊を倉敷に置くことを、国が決定しました。明治の終わりですから、国策に反対するということは厳しい状況であったはずです。ところがこの弱冠28才の孫三郎は、断固としてこれに反対したんです。その反対の理由はこうです。もし倉敷に若い兵隊たちが何千人も入って来たら、明治の文明開化の旗手として働く娘たちが傷つき、風紀が乱れるかも知れない。何が何でもそれは阻止したいということを彼は宣言するんです。彼はその戦いに勝って、日本の軍部は倉敷に連隊を置きませんでした。
孫三郎は28才のときから、ずっと児島虎次郎を中心とする若い作家たちと密接に連絡を取りあっていました。そして、日本はやがて文化と芸術で立つんだとこういうことを言っているんです。軍国主義一辺倒の時代に、すでに彼は日本の将来は文化と芸術だと言い切っているんです。そして昭和5年に大原美術館ができました。その次の年に満州事変が起き、日本は勝ちましたが、やがて世界の列強が日本に集まり、日本の軍国主義をこれ以上強くさせないよう方策が練られました。そのときに日本を視察に来た欧米人の何人かが大原美術館へ立ち寄りました。ここでエル・グレコの絵を中心にしたあの凄い大原美術館の佇まいを見て、みんなあっと驚いたそうです。こんな素晴らしい美術館が日本の片隅にあったのかと。これは大変だと言って感動して帰ったそうです。
やがて戦争が始まって、日本の国は尽く絨毯爆撃を受けました。隣の岡山も全部廃塵と化しました。ところが、倉敷の町だけが爆撃を免れたんです。京都と倉敷だけが日本で二つだけ、爆撃を受けなかったのです。これはなぜかと言うと、京都は文化的歴史的に非常に素晴らしいところで人類の遺産だから、爆撃をしないようにしたんだそうですが、同じように倉敷は大原美術館があったため、あれを爆撃してはならないという指示が出たんだそうです。そして、日本中が爆撃されて廃塵と化す中で、大原美術館を持つ倉敷の町と京都は生き残りました。このことには非常に深い意味を感じます。芸術・文化・美術という美しいものに対する人間の憧れというものは凄い力です。芸術の果たす役割はこんなに大きいものか。つまり戦争を抑止する力があるのではないかと。芸術する心、文化を大切にする心、そういう人間の力というのは、戦争をも阻止するのではないか。そう思うと芸術の果たす役割、あるいは文化の果たす役割、教育の果たす役割というのはいかにも重大だと考えて、大原美術館に対してもすっかり考えが変わりました。
何を言いたいかと言うと、芸術や文化というものこそ、実は本当に国を救い、人間を救い、そして人類の未来を救うんだということです。そんな意味で、東北芸術工科大学はまさにその道を歩んでいます。やっぱり考えるのは、東北芸術工科大学がこれからどう生きて行けばいいのか。どう戦うことが本当に大学としての使命を果たすことなのか。それと京都造形芸術大学とスクラムを組みながら、どんな風に日本のこれからのために役に立つ芸術の大学になるのか。そんなことを考えていたら、「美術館大学構想」が忽然として浮かんで来たのです。
では一体どんな美術館を作ればいいのか。この大学のキャンパスを全て美術館にしよう。つまり芸術大学の中に美術館を持つのではなくて、美術館の中に芸術大学が存在する、芸術とデザインの大学が美術館の中にあるという設定ではどうだろうか。そのような美術館大学という構想はどうだろうかと思い始めました。同じように京都もそうあるべきではないかと考え始めました。それぞれ、個性と生き方は違ったとしても、目指すところはただ一つ、この国をどうするか。この日本の文化をどう生き生きと蘇らせて、新しい時代に残っていけるかというのが大学の使命なのです。
大原孫三郎は、昭和18年、戦争の最中に死ぬわけですが、死ぬときに彼はこんなことを言い残しています。「おれはいろいろなことをやってきたけれども、何が辛かったかというと、美術館を作ったことだ。あれさえ作らなかったら、おれはもっと楽だった」。しかし、倉敷紡績はなくなりましたが、大原美術館は倉敷の町を救い、今日、日本の中で燦然と輝いています。今、倉敷の町は人口50万人の大都市です。そして、年間500万人の人が集まります。あの美術館がなかったら、倉敷の町は存在していないかも知れません。京都もあの歴史的遺産が残っていなかったら、つぶれてしまっていたかも知れません。芸術とか文化とかいうものがいかに大切かということを、繰り返し繰り返し申し上げたいわけですが、とにかくこの大学の卒業生、在学生、先生方、これは何も絵や彫刻・陶芸に限りません。デザインの作品はもちろんのこと、文学の作品もあります。詩もあります。様々なものすべて芸術と文化です。だからそういうものをひっくるめた美術館でありたい、そういう大学でありたいと考えています。大学の敷地、悠創の丘が全部そういうもので埋め尽くされて行けば、やがてそれが山形全体に広がって行き、この都市が大きく生まれ変わって行くと考えたら、どんなに素晴らしいことだろうと思っています。
ともかく、新たな芸術・美術あるいは文化、そういうものを大切にする国でなければ、これからは恐らく生きては行けないのではないか。その哲学を貫き通す大学でありたいと考えています。
(2002年7月24日/教職員総会における講話採録)
徳山詳直 Shochoku Tokuyama