第5回 スィート・マリィは不滅の友~フレイミン・グルーヴィーズの巻|かんがえるジュークボックス/亀山博之

コラム

手紙のたのしみ

 一通の手紙が届いた。それはエアメール。消印は2023年7月10日。長年の友だちからの手紙だ。7月は「ふみつき」。そんなわけで「手紙」の話題。

海を越えて届いた手紙(エアメール)
海を越えて届いた手紙

 郵便受けに届いた手紙を見つけるのは、本当に嬉しい瞬間だ。ただし、請求書では心は躍らない。請求書の類いの郵便物というものは一律に冷たい雰囲気をまとっているから、一瞬でそれと判断できる。いっぽう、友だちからの手紙はいつでも楽しげなオーラを放っている。今回届いた封筒もハッピーなオーラを湛えていた。

奥深き文通の世界

 電子メールが手紙に代わる主たる通信手段となって久しい。年賀状のやりとりも年々減少の一途である。それでも、手書きの文字のやりとりを今も愛する人はいるし、同じ文章でも、電子メールよりも紙の手紙のほうが、気持ちをより伝えられると思っている人も少なくないだろう。しかしやはり、便利さが優先される世の中にわたしたちは生きているから、手間のかかることはお払い箱にされがちだ。でも、その便利さごときに、手紙がくれる素晴らしい喜びを奪われてはいけない。実際に誰かの手によって書かれ、封をされ、切手を貼られ、トラックや船や飛行機で運ばれ、郵便屋さんが自宅の郵便受けまで大事に届けてくれる手紙がくれる喜びは貴重だ。デジタルだAIだという技術が、このアナログな喜びの代わりを用意してくれたりはしない。
 わたしは小さいときから外国語とか海外の生活というものに関心があった。それで高校1年のとき、英字新聞の片隅に掲載されていた海外の文通相手を無料で紹介する広告をたまたま見つけて、なんとなく始まった文通という趣味が今も続いている。だから、冒頭で述べたように、郵便受けに楽しげな佇まいの手紙が届くのをいつも楽しみにしているのだ。

保管している文通相手からの手紙の山
保管している文通相手からの手紙の山

 英字新聞がタダであちこちの国の文通相手を紹介してくれるのをいいことに、高校時代のわたしには、とんでもない人数の文通相手がいた。韓国、インド、ドイツ、ベルギー、ブルガリア、ユーゴスラビア、アメリカ、カナダ、オーストラリア・・・学校から帰ると、世界のあちらこちらからひっきりなしに手紙が届いているものだから、返事を書くのが忙しくて宿題に手が回らないことさえあった。
 文通といえば、ひとりの相手と長年にわたって細々と手紙のやりとりを続けるようなイメージをお持ちの方が多いかもしれない。だが、世の「文通ファン」なる人々は、複数の相手同時にやりとりをすることが少なくない。けれど、手紙というものは、基本的に心と心のやりとりだから、どちらかの情熱が冷めたり、生活が変わったり、そんな変化があると手紙のやりとりが途絶えてしまうこともままあることだ。このことを含めて、文通というやりとりは魅力的だと思う。

スウィート・マリィは今夜どこに?

 一時は何十人といたわたしの海外の文通相手も例に漏れず減少した。しかし、今もやりとりを続けている相手がただ一人だけいる。それが先日も手紙を送ってくれたオーストラリアのマリィ(Marie)ちゃんだ。

はじめての手紙に添えられていたマリィちゃん3姉妹(写真)
はじめての手紙に添えられていたマリィちゃん3姉妹

 マリィちゃんとは高校1年のときから文通を続けているから、今年で29年目である。とはいえ、やりとりが途絶えた時期もあった。そんな危機も乗り越えての関係だ。わたしが久しぶりに手紙を出したところ、マリィちゃんは結婚して別なところで暮らしていることがわかった。日本から届いた懐かしい字体の手紙を久しぶりに見たマリィちゃんの両親がいたく喜んで、手紙が届いたその日のうちに彼女に手紙のことを連絡し、無事にやりとりが再開されたのだ(といういきさつを手紙で教えてもらった)。
 さて、こんな手紙のやりとりにぴったりの1曲はなんだろう?手紙が届くのを心待ちにするときの気分をうたった「プリーズ・ミスター・ポストマン」もいい。いやいや、それでは展開があまりにもわかりやすすぎる。というわけで、文通相手のマリィちゃんの名前にちなんで、”Absolutely Sweet Marie(圧倒的にスウィートなマリィ)”だ。この曲のオリジナルはご存じボブ・ディランによるもので、1966年の名盤『ブロンド・オン・ブロンド(Blonde on Blonde)』に収録されている。ディランの歌手生活30周年記念ライブでジョージ・ハリスンが歌ったバージョンもかっこよかった。けど、今回はアメリカのバンド、フレイミン・グルーヴィーズ(The Flamin’ Groovies)の1979年のカヴァーを聴こう。大ヒットを飛ばしたわけでもないが、ガレージ・バンドっぽい手作り感のある演奏がステキなのだ。

フレイミン・グルーヴィーズ「Absolutely Sweet Marie」
フレイミン・グルーヴィーズ「Absolutely Sweet Marie」

 「圧倒的にスウィートなマリィ」の内容を簡単にまとめれば、待てど暮らせどやって来ないマリィの話だ。

Well, I waited for you when I was half sick
半分病気の状態で 君を待ってた
Yes, I waited for you when you hated me
君がぼくを憎んでるときでも 君を待ってた
Well, I waited for you inside of the frozen traffic
凍える道のなかでも 君を待ってた
When you know I had some other place to be
ぼくにも ほかにいるべき場所があるのに

Now, where are you tonight, sweet Marie?
今夜 君はどこにいるの、スウィートなマリィ

 

Well, anybody can be just like me, obviously
誰でも ぼくと同じ思いをするだろう 明らかに
But then, now again, not too many can be like you, fortunately
でも 君みたいには 誰もがなれるわけではない 幸運にも

 ディランの詩が難解といわれがちな理由は、その思わせぶりな態度にあると思う。動詞や形容詞を修飾する副詞、たとえばabsolutely(圧倒的に/絶対的に)とかobviously(明らかに)とかfortunately(幸運にも)とか、短い文章群のなかに多用されている。それらによって心理的な動作はくどいほど具体的に描写されるものの、反面、物理的な状況の説明は曖昧、かつ、すべてが何かの隠喩(metaphor)のままで、それ以上は語られない。たとえるなら、きめの細かい上質な織物を使って縫製された、とてつもなく懐の広いざっくり仕立ての浴衣みたいな詩だ。
 さて、詩のラストには、主人公と手紙のくだりがみられる。

Now, I been in jail when all my mail showed
刑務所にずっといて 手紙を書いてわかったことだが
That a man can’t give his address out to bad company
悪い連中に住所がバレるのはよくない

 この主人公はどんな人で、スウィートなマリィとはどんな関係だったのだろうか?結局、最後まで煙に巻かれたままだ。ここでもやっぱり「答えは風の中」なのか。少なくとも、手紙が届くのに時間はかかるし、相手はいつ書いてくれて、いつ届くかもわからないし、今夜マリィがどこにいるのかわからない、ということだけはこの歌の中でも私の文通相手との関係の中でも間違いない。

会わなければ不滅

 マリィちゃんと文通を始めて29年だが、これまで一度も彼女に会いたいと思ったこともないし、今のところ会う予定もない。だから、実際に今夜どこにいるのかさっぱりわからない。ただし、まったく知らない人ではない。
 19世紀のアメリカ、マサチューセッツ州アマストに生まれ育ったエミリ・ディキンスン(Emily Dickinson, 1830-1886)は、生前はほとんどその名を知られず、その死後に膨大な作品が発掘され、評価された詩人である。

エミリ・ディキンスンの記念切手
エミリ・ディキンスンの記念切手

 詩作への没頭と文通相手との頻繁な手紙のやりとりのなかに生きていたともいえるエミリが遺した言葉に、次のようなものがある。「手紙は、肉体のある友人がいなくて心だけなので、私にとってはいつも不滅のように感じます(書簡三三〇番)。」(下村、p.134)なるほど、心だけのつながりだからこそ不滅と感じるのか。たしかに、文通はずっとこの先も続くだろうという感覚はあるし、精神世界の永遠性とか無限の広がりとか、手紙の中にそんなものも感じたりもできる気がする。しかし、手紙を書いている当人たちは不滅の肉体を持っていないので、死ぬ前に一度マリィちゃんに会ってみたい気もする。ちなみに、今回届いた手紙には「いつか会いたい」というようなことが書かれていた。というのは、マリィちゃんの娘が文通という世界に興味津々で、電子メールがあるのにわざわざ手紙でやりとりを続けている日本人のママの友だちという謎の人物に日本に行って会ってみたい、と言っているからなのだ。というわけで、世代をつないで続いていくスタイルの「不滅のよう」なものもあるのかもしれない、という気がしてきている。
 とりあえず、今夜もどこにいるのかわからないマリィちゃんに手紙の返事を書こう。

 それではまた。次の1曲までごきげんよう。
 Love and Mercy

 追伸
 このコラムを開始しておよそ半年、まったく感想も反応もございません。お手紙にはお返事を必ず返す筆まめですので、同じような筆まめな読者のあなた様、どうぞ大学までお送りください。


参考文献
下村伸子「『私の手紙の読み方は、こんな風です』」『私の好きなエミリ・ディキンスンの詩』(新倉俊一編、金星堂、2016年、p.134)

(文・写真:亀山博之)

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亀山博之(かめやま・ひろゆき)
亀山博之(かめやま・ひろゆき)

1979年山形県生まれ。東北大学国際文化研究科博士課程後期単位取得満期退学。修士(国際文化)。専門は英語教育、19世紀アメリカ文学およびアメリカ文学思想史。

著書に『Companion to English Communication』(2021年)ほか、論文に「エマソンとヒッピーとの共振点―反権威主義と信仰」『ヒッピー世代の先覚者たち』(中山悟視編、2019年)、「『自然』と『人間』へのエマソンの対位法的視点についての考察」(2023年)など。日本ソロー学会第1回新人賞受賞(2021年)。

趣味はピアノ、ジョギング、レコード収集。尊敬する人はJ.S.バッハ。