第3回 孤独と神と五月病~ギルバート・オサリバンの巻|かんがえるジュークボックス/亀山博之

コラム

連休後の「時空の歪み」説

 その終わりがはるか遠くに見えていたはずのゴールデンウィークが終わってしまった。1週間以上あったはずなのに「一瞬」だった。おかしいな。なんてことだ。ちょっと待ってくれ。十分に休みを満喫したなんてちっとも思えないし、十分に疲れが取れたともさっぱり思えない。なのに、無慈悲にも社会はふたたび一斉に動き出した。さらに言わせてもらえば、連休後の時間には無慈悲さが加わった気もする。時空のゆがみでも起きたのだろうか?心が通常モードを思い出す暇さえくれないまま、かつてない猛スピードで時間が流れ出したようだ。

東北芸術工科大学を遠く西から眺める連休の風景
芸工大を遠く西から眺める連休の風景

 しかたない。とりあえず落ち着こう。どうぞ、コーヒーでも飲みながらこのコラムを読んで心を穏やかにしてください。

孤独感の共有

 がんばって学校生活になじもうと必死に過ごした4月を乗り越え、久しぶりに会えた家族の顔を見てホッとして、地元のむかしの同級生たちとの変わらぬ友情に嬉しくなる。そんな連休を過ごした後、否応なく再開される一人暮らし。ふたたび孤独。それはとてもつらい。けれど、こんな孤独を味わっているのは自分ひとりだけではない。それがわかるだけで、少し気分も晴れるはず。オールディーズ界隈の「ひとりぼっちソング」代表とも呼べるギルバート・オサリバンの1972年発表の「アローン・アゲイン(Alone Again)」を聴くのに、5月はぴったりだ。

ギルバート・オサリバン「アローン・アゲイン(Alone Again)」ジャケット
「ギルバート・オサリバンへの関心は、日ごと高まっています!!」

 明るい曲調とは裏腹に、この曲の主人公の独白は非常に暗い。婚約者に結婚をすっぽかされ絶望。そして、近所にある塔から身投げしてやると自暴自棄。ボクが死んだのを見れば、この悲しみが世間に理解されるだろうと主人公は歌う。さらに曲はつづき、愛する父も母もすでに亡くしてしまっていることを打ち明ける。今、孤独のピークを迎えている男がいることを、ほのぼのしたメロディのなかでリスナーは知らされる。

神の沈黙

遠藤周作『沈黙』書影
遠藤周作『沈黙』

 わたしはこんなにも神を信じて慕っているのに、神はなぜ何も答えてくれないのか。神の沈黙は人間を孤独に突き落とす。と同時に、人間の本質とは何かという問いを与える。べつに潜伏キリシタンでなくとも、これと同じ孤独と問いは、わたしたち全員が抱える問題だ。そう、「アローン・アゲイン」のなかの主人公も含めて。
 江戸幕府の役人に棄教を迫られ、心身ともに極限状態へ追い詰められた当時の宣教師と潜伏キリシタンたち。彼らはイエス・キリストに救済を求めるも、返ってくるのは沈黙のみ・・・。これとまったく同じ状況が「アローン・アゲイン」の詩にも見つかる。

Talk about God in His mercy
神の慈悲について語るとき
For if He really does exist
神がほんとうに存在するのなら
Why did he desert me
どうして神はボクを見離したのだろう
in my hour of need?
ボクが困難な状況にあったときに

 これは寸分違わず『沈黙』のテーマそのものだ。まさか、ギルバート・オサリバンが遠藤周作の『沈黙』を読んで、それを引用したわけでもないだろう。ということは、神の存在に対する疑念とは、人間の本質そのものに含まれる普遍的な感情なのではないか。

受動態と隠れた動作主

 「アローン・アゲイン」の詩に特徴的なのは、受動態の多用である。受動態、または受け身、passive voice。中学3年生あたりに習う<be動詞+過去分詞 by~>の形が基本の「~によって・・・される」という表現だ。曲の冒頭にはこんな詩がある。

Left standing in the lurch, at a church
教会で、絶望の淵に独り取り残され
Where people saying
そこで人々はこう言っている
“My God that’s tough, she stood him up
「なんてこった、花嫁にあの人すっぽかされちゃったよ
No point in us remaining
ここにいても仕方ないね
We may as well go home”
われわれはもう帰った方がいいね」
As I did on my own
ボクが独り、家に帰ったように
Alone again, naturally
また孤独になる運命だったんだ

 最初のLeft standing in the lurch, at a churchという一節に少し言葉を補えば、

I was left standing in the lurch, at a church by her.
私は絶望の淵に彼女によって独り取り残された。

という文章を作ることができるだろう。取り残されたのは「私」で、取り残したのは花嫁になるはずだった「彼女」だ。この詩のように、by her(彼女によって)ということが誰にとっても明白な場合、受動態の文章においては省略されることがよく起こる。たとえば、恋人同士がささやき合いそうなこんなセリフがある。

We are meant for each other.
意訳:わたしたちはお互い、運命の人だね。
直訳:わたしたちは互いに意味づけされている。

 この文章の最後に、by God(神によって)という言葉が省略されていることは、英語圏の人だけでなく、みな同じ感覚で理解できるものだろう。

孤独になる運命

 さて、「アローン・アゲイン」の詩に戻ろう。中盤にはこんな詩が登場する。

It seems to me that
ボクには
there are more hearts broken in the world
世界中にもっと傷つけられた心があるように思える
That can’t be mended
治してはもらえない心
Left unattended
無視されたままの心
What do we do?
ボクたちはどうしたらいい?
What do we do?
ボクたちはどうしたらいい?

 多くの心は誰によって傷つけられた/壊された(broken)のだろうか?きっとこれは、主人公にとっての花嫁候補のような、身の回りの人たちによってかもしれない。では、治して(mended)もらえなかったり、無視されたり(left unattended)するという言葉の背後には誰が隠れているだろうか?そう、これこそ神(by God)だ。沈黙する神を前に、人はいつでもwhat do we do?(どうしよう?)とうろたえるのだ。

筆者が幼稚園時代から愛用のカード
筆者が幼稚園時代から愛用のカード

 江戸時代の潜伏キリシタンも、婚約者に捨てられて嘆く「アローン・アゲイン」のなかの主人公も、さらには、連休を終えて孤独を感じているわたしたちもみな、うろたえるのだ。けれど、それはちょっぴり悲しいことかもしれないけれど、まったく特別なことではないのだ。よかった時を過ごした後、ふたたび孤独になるのは当然のこと、そうなるようになっている(alone again, naturally)のだ。だから、5月病は絶望の終着点ではなく、完全なる自然体、ニュートラルな位置、生まれたままの状態ともいえよう。そうなのだ、5月病とは、すべてがリセットされた最高にピュアな人間の精神を確認させてくれる、とてもありがたい病なのだ。たぶんきっと。

 邦題では省略されている場合もあるようだが、「アローン・アゲイン」という曲はもともと副題のように括弧書きでnaturallyという言葉がタイトルに含まれる。naturallyは「自然に」という意味の副詞だが、by nature(生まれついて)というフレーズに置き換えて考えれば、また独りぼっちになっちゃった、ということは実は人間の運命そのものだということがより明確に伝わってくる。孤独とは、人類共通の、そして、だれも決して逃れられない壮大なテーマなのだ。

 それではまた。次の1曲までごきげんよう。
 Love and Mercy

(文・写真:亀山博之)

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亀山博之(かめやま・ひろゆき)
亀山博之(かめやま・ひろゆき)

1979年山形県生まれ。東北大学国際文化研究科博士課程後期単位取得満期退学。修士(国際文化)。専門は英語教育、19世紀アメリカ文学およびアメリカ文学思想史。

著書に『Companion to English Communication』(2021年)ほか、論文に「エマソンとヒッピーとの共振点―反権威主義と信仰」『ヒッピー世代の先覚者たち』(中山悟視編、2019年)、「『自然』と『人間』へのエマソンの対位法的視点についての考察」(2023年)など。日本ソロー学会第1回新人賞受賞(2021年)。

趣味はピアノ、ジョギング、レコード収集。尊敬する人はJ.S.バッハ。