第2回 バス停と最新恋愛事情~ザ・ホリーズの巻|かんがえるジュークボックス/亀山博之

コラム

希望と不安の春

 大学のまわりの雪も解け、この雪国にもようやく春が訪れた。春になると自然の草木が動き出す。それと時を同じくして、日本では新年度が始まる。

雪の消えたキャンパス
雪の消えたキャンパス

 新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。進級、進学、新生活。いろいろな状況と環境でこの新しい春を迎えている私たちすべてに、おめでとうございます。とにかく私たちはみな、厳しい冬を乗り切ったのだ。

芸工大の裏の山と桜
芸工大の裏の山と桜

 嗚呼、春だ。春といえば希望と不安が入り混じる季節。新しいスタートをうまく切れずに焦っている脇で、新芽がすくすくと順調に成長しているのを目の当たりにすれば、なおさら焦りは増すもの。しかし、そんな憔悴感さえも「想像力」の起爆剤にしてしまおうではないか。普通でない状況でしか感じられないものを存分に満喫しよう。あとになってふりかえると、恐ろしいほどに自分の心身を脅かした春の不安でさえ、甘美な思い出になったりもするものだ。すべては創造的世界を構成する材料だ。

春の構成要素

 新学期が始まると、学内もバス停もどこもかしこも賑やかだ。
 季節を問わず、大学の前のバス停には行列ができる。けれど、春のバス停の行列には独特の雰囲気がある。多くの人が新しい生活に慣れたころの夏のバス停にはない、春にだけ漂うザワザワ感。それぞれがいろいろな想いを抱きながらバス停でバスを待っているのだろうと思うと、春の雰囲気を作っているものは、梅や桜、チューリップだけでなく、人間のいろいろな感情の集合体みたいなものなのかもしれないな、と思ったりする。

バス・ストップ

 バス停といえば、ザ・ホリーズの「バス・ストップ」という曲が勝手に脳内で再生されてしまう。若い恋を歌った1966年の胸熱ソングだ。当時、とてもヒットした曲だ。

ザ・ホリーズの「バス・ストップ」
ザ・ホリーズの「バス・ストップ」

 ザ・ホリーズはイギリスのバンドである。ザ・ビートルズの真似っこバンドだと、60年代当時の彼らはよく揶揄されていたらしい。ホリーズのホリー(holly)は植物の「ひいらぎ」の意味かと思いきや、ジョン・レノンも憧れたロック界のレジェンドの1人であるアメリカ人ミュージシャンのバディ・ホリー(Buddy Holly)が由来だという。というように、その当時のイギリスの音楽シーンといえば、こぞってアメリカに憧れ、似たり寄ったりのバンドがあちこちで出現していたのである。そんな数多あるバンドのひとつ、ザ・ホリーズの「バス・ストップ」という曲には、60年代ブリティッシュ・ロック界隈の空気を存分に伝えるサウンドが詰まっている。いくらかの緊張感を湛えた軽快なテンポで、バス停で出会った男女がひと夏をともに過ごし恋に落ちていく、そんな展開の詩が歌われる。

Bus stop, wet day
バス停、雨の日
She’s there, I say
彼女がそこに、ぼくは言う
Please share my umbrella
ぼくの傘をどうぞ
Bus stop, bus goes
バス停、バスは行き
She stays, love grows
彼女はとどまり、愛が育つ
under my umbrella
ぼくの傘の下で
All that summer we enjoyed it
その夏ずっとぼくたちは
Wind and rain and shine
風も雨も晴れの日も楽しんで
That umbrella, we employed it
その傘をうまく使って
By August she was mine
8月には彼女はもうぼくのもの

 バス停、そして、雨と傘。ちょっとしたきっかけで2人の恋がはじまったようだ。この曲が発表された1960年代であったなら、かわいらしい曲だねえ、という感想で済んだかもしれない。しかし昨今、男女間の不平等、性の多様性、さらに言えば人権、所有の概念、ありとあらゆる問題が顕在化したのはご存じの通り。たとえば、上記の詩の最後のフレーズ “By August she was mine”(8月までには彼女はぼくのものになった)は、いくつかの問題をはらんでいる。

 第1に、彼女を”mine”(ぼくのもの)として、この主人公が「所有」することは許されるのだろうかという問題がある。一個人を「自分のもの」にするという表現が妥当かどうか検討されなければならないし、さかのぼって、誰かが別の誰かの所有物となるという考え方は、歴史的な検証と反省が必要であろう。

 第2に、ここまで主人公を男性と見なし、恋に落ちた相手を女性と考えてきたが、それは正しい解釈なのかという新たな問題も今日では浮かび上がってくる。というのも、この詩において主人公は”I”(私)、その相手は”She”(彼女)であるが、この”I”が男性であるという確証はない。たまたまこの歌を歌っているザ・ホリーズのアラン・クラークが男性だから、この主人公を男性だと聞き手の私たちは勝手に思い込んでいるに過ぎない。各人の性自認を広く受け入れ合うべき今日、この詩の”I”は女性かもしれないという可能性を否定してはいけないのだ。もっと言えば、この主人公は相手を”She”と呼んでいるが、相手は”She”と実は呼ばれたくないかもしれない場合も考えられる。この歌を聞き手の勝手な判断で「男女の恋愛」と考えるのは、いまや旧世代の解釈となってしまったわけである(ま、そこまで深読みすることが「無粋」と感じる自由は残されていると信じたいが…)。

 ここ最近の各種SNSの個人プロフィール欄の性別の項目に、he/theyとかshe/theyと載せている人を見たことがないだろうか。近年、英単語の”they/them”の意味に大きな変化が起きている。それは、男性ならば”he”、女性ならば”She”、そのどちらでもない場合は”they”を用いることが主流になりつつある、という変化である。
 もう少し具体的に見てみよう。”they”はこれまで3人称複数の「彼ら」を表す代名詞だった。しかし今では、彼でも彼女でもない3人称単数の代名詞「その人」として扱われるようになっている。たとえば、Do you know Hiro? I talked with them last night on the phone. (ヒロのこと知ってる?私、昨晩、電話でその人としゃべったの)というように、ヒロさんが男性でも女性でもない性自認の人という場合においては、him/herを用いず、themを使うのである。
 言葉は世の中の変化とともに変化するものだ。だから、こうした点にもぜひ敏感になっていたいものである。さもないと、遺物とか化石のような恋愛をすることになりかねない。

 そしてもう1点、「バス・ストップ」の詩の最後にはこんなフレーズもある。

Someday my name and hers are going to be the same
いつかぼくと彼女の名前が同じになるよ

 日本の国会でも議論がつづいている「夫婦別姓問題」はどこ吹く風の詩である。小学生のころ、好きな子の名字や名前を自分の名前につなげてキャーキャー騒いだ記憶が呼び戻された方もいるだろう。しかし、こんな思春期にありがちなエピソードは、過去の遺産になる日はそう遠くないかもしれない・・・。好きな人と同じ名字にすることがロマンチックだと考える価値観は、今、再考されるべき大問題である。恋愛をするにも、やっぱり今日、以前にましてかなりさまざまなことに敏感でなければならないのだ!

バス停の青春

 バス停といえば、アメリカ、シアトルにある大学に留学していたころ、筆者はどこに行くにもバスを利用していた。日本と違ってアメリカの路線バスは時間通りに来たためしはなかった。待てども来ないバス生活にいよいよ我慢の限界を感じて、バス移動の暮らしを2年ほど経たのち、クルマとバイクの免許を取った。ちょうどその頃の写真が出てきた。

研究室にある「War Is Over」
ヘルメットを買った日

 写真のこの日、バイク用のヘルメットを買うために、友達とバスに乗って街へ出掛けたのだった。シアトル市内を回るバスとバス停も背後に写っている。このときのヘルメットは今も大事に持っている。そう、お気づきだろうか?冒頭の大学前のバス停の写真の中、ベンチの上に置いてあるヘルメットは、まさにこのとき買ったものだ。大事なバス停の思い出の詰まったヘルメット。古くてもう使えないが、捨てるに捨てられない。嗚呼、バス停の青春よ、永遠なれ。

 それではまた。次の1曲までごきげんよう。
 Love and Mercy

(文・写真:亀山博之)

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亀山博之(かめやま・ひろゆき)
亀山博之(かめやま・ひろゆき)

1979年山形県生まれ。東北大学国際文化研究科博士課程後期単位取得満期退学。修士(国際文化)。専門は英語教育、19世紀アメリカ文学およびアメリカ文学思想史。

著書に『Companion to English Communication』(2021年)ほか、論文に「エマソンとヒッピーとの共振点―反権威主義と信仰」『ヒッピー世代の先覚者たち』(中山悟視編、2019年)、「『自然』と『人間』へのエマソンの対位法的視点についての考察」(2023年)など。日本ソロー学会第1回新人賞受賞(2021年)。

趣味はピアノ、ジョギング、レコード収集。尊敬する人はJ.S.バッハ。