北の旅、南の旅|駆けずり回る大学教員の旅日記 #10/北野博司

コラム 2021.11.01|

函館は五稜郭にきている。

真冬に来ることが多いが、今回は珍しく秋。福島県相馬市で仕事をして、そのまま仙台からはやぶさに乗ってきた。7月末、弘前城から北海道松前の福山城へとはしごした時もそうだったが、北に向かうとなぜか心にざわめくもの感じる。

若いころ、秋田や青森に行くといえば、ガッタン、ゴットンと客車を引きずるように出発する夜汽車を利用した。冬は目が覚めると窓の外が真っ白で、デッキはドアの隙間から吹き込んだ雪で真っ白になっていた。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 夕暮れのなか走る、寝台特急「北斗星」
寝台特急「北斗星」は1988年3月、青函トンネルの開通とともにデビュー。上野~札幌間を約16~17時間かけて走行した。2015年8月、惜しまれつつ27年間の歴史に幕を閉じた。

石川県に住んでいたので、遠出するには北にも南にも夜行列車だった。東京へは急行「越前」か「能登」の普通席。寝台特急「北陸」は値段が高くて乗れなかった。社会人になってからは寝台特急に乗るようになり、北に行くときは「日本海」、西に行くときには北陸線を京都で乗り換えて、寝台の「富士」や「さくら」に乗った。2段ベッドが向き合うB寝台はほかの3席にどんな人が寝ているのか、気配を感じながら寝起きしたものだ。早朝、行きずりの人とのささいな会話はカプセルホテルでは味わえない趣があった。列車名は忘れたが、線路と平行に寝て、空が見上げられる個室寝台というのがあった。1度だけだったが満点の星空を見上げ、夜汽車旅の旅情に浸った記憶がある。山形に来てからは、真冬の札幌入試の帰りは「北斗星」と決まっていた。みんなでかさばるデッサンのモチーフを消費しつつ、鮭とばをかじりながら談笑して労をねぎらった。

夜汽車、夜行列車からブルートレインと名前が変わり、装備の充実とともに価格が上昇し、クルーズトレインはぜいたく旅の象徴となった。ある夜、弘前駅に降り立つとホームから軽快なジャズが聞こえてきた。かの「四季島」の到着に合わせて旅のお客さんを生演奏で迎えようという趣向だった。改札に向かうのがもったいなくてしばらく聞きいっていた。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 「TRAIN SUITE 四季島」の到着に合わせ、小編成のジャズバンドが音楽を奏でる。(SWIGE HAT JAZZ ORCHESTRA)
「TRAIN SUITE 四季島」の到着に合わせ、小編成のジャズバンドが音楽を奏でる。(SWIGE HAT JAZZ ORCHESTRA) 2017年6月28日 弘前駅にて

いまや、半日の仕事なら熊本も函館も日帰り圏内になった。高速道路が発達し、学生たちは高速夜行バスを利用する。震災の時にやむなく乗ってはみたものの、旅の風情を感じるのはやっぱり鉄道に限ると思ってしまう。ベトナムでは進行方向にフラットに寝られる「スリーピングバス(寝台バス)」があって、長距離移動も快適である。タイでは高速道路でも窓を開けて走り、お客さんが吊革につかまって立っているというのが普通。無防備で寝るバスは、日本の交通ルールでは難しいのだろう。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 ベトナムのスリーピングバス
ベトナムのスリーピングバス 2017年3月 ダナンにて
北野博司 #10 北の旅、南の旅 タイ・バンコクの高速道路を走る路線バスでは、お客さんが吊革につかまって立っているというのが普通
タイ・バンコクの高速道路を走る路線バスの車内

実は最近まで、北に旅する時と西(南)に旅する時では気分が違うなあ、と思っていた。しかしある時、本当にそうだろうかと思って調べてみると、どうもそれは思い込みのようだった。青森駅を出て青函連絡船の埠頭に立つと、「津軽海峡冬景色」を口ずさむように、我々は映画やドラマ、音楽、小説など、視聴者、読者が展開を理解しやすいように、様々なイメージが脳に刷り込まれている。「北」は寂しさ、悲しさ、厳しさの比喩として用いられてきたという。高倉健「網走番外地」「鉄道員」、吉永小百合「北の零年」など、北海道を舞台とした映画はそんなイメージをいやというほど見せつける。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 吹雪のなかを走る列車

「夜汽車に乗ってひとり北に逃げる犯人」というのはサスペンスドラマの定番である。現代の犯罪者は都会の雑踏に紛れるが、日陰者であるべき犯人が暖かい所に向かってはドラマにならないらしい。なぜそのようなイメージが形成されてきたかは問うべき課題であるが、ここではそのことは置いておく。

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一時の旅と違って、住まいを変える「移住」はいまや当たり前のこととなった。かくいう私も20年あまり前、金沢から山形にやってきた。生誕地と金沢でそれぞれ1/3、山形で1/3、残りの人生1/3はどこで暮らすかわからない。国内を北や南に旅していると、移動手段が限られていた時代の人々の移住への想いを想像する。

定住地を移動するとき、国内の場合は「移住」と言い、外国へ行くのを「移民」と使うことが多いようだ。前近代には国内でも「移民」の語が使われている。ともに移住であり、現代では国内移民と国際移民という使い方もする。期間によって一時的移住と恒久的移住という区分もあるらしい。

弥生、古墳時代には西から来た渡来系集団が各地にコロニーを作って本州各地に定着していった。関東や中部高地にはその痕跡が顕著である。飛鳥、奈良時代、土地と民衆が戸籍等で行政的に掌握されると、王権は東北地方を内国化するために、北陸、信濃、関東諸国から移民を割いて、北へ入植させていった。新たに行政単位である「郡」を立てるとき、その下に「郷」を編成したが、郷名に故地の地名があてられることもあった。新潟県北部の磐舟(岩船)郡には利波(越中)や坂井(越前)、山家(信濃)という郷があった。明治・大正の北海道開拓では本州島からあまたの人々が北へ向かった。集団移住した先ではふるさとの神様を祀っていたことが神社名の分布などからわかる。

意にそぐわず移動させられる民、戦乱・貧困による難民、積極的に開拓の意志をもって移住する民、それぞれ故郷を捨てざるを得なくなったものには、等しく「望郷の念」があったのだろうか。

私の出身地である北陸地方は言わずと知れた真宗王国である。笠間藩(茨城県)や相馬中村藩(福島県)では、天明の飢饉の人口減で困窮していた農村の復興をはかるため、間引き(嬰児殺し)の習慣がなかった加賀藩領内から大勢の真宗門徒を招き入れた。送り出す側は浄土真宗の教線拡大と人口増による農地不足という事情もあった。移住者の多くは同郷人で村を形成した。非合法移民、よそ者という存在に加え、荒れ地の再開発、未墾地を農地に変えていく労働は想像をはるかに超えるものだっただろう。北関東・東北に伝わる「加賀泣き」という言葉に故郷の先人へ想いを馳せるのである。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 常磐線相馬駅

相馬や笠間に行って自分が石川県出身だというと、地元の方々は決まって真宗門徒の移民の話をしてくれる。その時たいへんお世話になったというニュアンスで、200年前の歴史が今も語り継がれている。
ちなみに江戸時代に困窮して失踪する農民、非合法の移民を「走り」または「欠落〔ケツラク、カケオチ)」と言った。現代では両親から結婚の同意を得られない男女が黙って家を出ることを「駆け落ち」というが、「家」に縛られない若者はもはやそんなことは言わない。昭和歌謡で歌いつがれた「望郷」は日本ではやがて死語となり、「駆け落ち」習俗は民俗学の研究対象となるだろう。

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故郷へのノスタルジーは自分が定着的な稲作農耕民の末裔だからかもしれない。ふとそう思うことがある。水田を耕しながら暮らす農民はその土地を離れて暮らすことはできない。それは当たり前のことだと思っていた。

タイのイサーン(東北地方)では「ハー・ナー・ディ」という習俗がある。ハーは「探す」、ナーは「田」、ディは「良い」。要するに、農民が良田を探して移住することである。イサーンの農村を歩くと、日本と同じようにたくさんの集落がある。イサーンはタイで最も世帯収入が低い地域で、かつては開発可能な熱帯乾燥林の森が豊富にあった。集落には必ずお寺があって、その村の歴史を伝えている。取材するとどの村もここ200年以内に成立したことがわかる。最初の移住者が誰か、どの家族かを記録している。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 森を開墾した農地 ラオス国サワンナケート県ソンコーン郡P村
森を開墾した農地。森林は生態系維持と資源利用のために皆伐しない。産米林とも呼ばれる。 ラオス国サワンナケート県ソンコーン郡P村 2013年12月

兄弟・姉妹が5~10人いる人口増加社会では相続する土地は新たに開墾しないと確保できない。ラオスもそうだが、伝統的に女性が家を継ぐ社会では、女は「竪杵」を持ち村に残り、男は「鋤」をもって村を出る。ある人は「開拓移住型稲作農耕民」と名付ける。いま定住しているように見えるけれども、それは長い移住の旅の途中、仮の姿だという。20年、50年は定着しているが、来年にはまた移住するかもしれない。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 タイ 移民第1世代のGおばあちゃん
移民第1世代のGおばあちゃん(67)。16歳の時、コンケーン近郊の土器作り村を夫とともに出た。「仕事がなかったからさ。来た時は家が3軒しかなかったよ。みな先に行った親戚。土器つくりはここで覚えたわ。3人の娘たちもみな土器を作るよ」 タイ国ウドンターニー県K村 2014年3月
北野博司 #10 北の旅、南の旅 ラオス タイ国ウボン県ケマラートから国境(メコン川)を越えてやってきたHさん
タイ国ウボン県ケマラートから国境(メコン川)を越えてやってきたHさん(68)。22歳の時に兄とともにここに来た。そしてNさんと出会って結婚した。Nさんは15歳の時に父・兄弟4人でウボン県の土器作りのSN村を出た。「この辺りの土地はNさんの家族が開墾して占有したんだ」 ラオス国サワンナケート県P村 2014年3月

現役の土器づくり村、ハー・ナー・ディした先で途絶えたかつての土器づくり村、たくさんの人たちから移住の苦労話を聞いた。真宗門徒のように、縁者を頼って100㎞、200㎞を軽々と旅する。当時はクウィアン(牛車)を使って野宿しながら歩いた。車社会になっても移住行動は続いた。一旦落ち着いても(試住)、さらに転地したり、兄弟の一部が故郷に戻ることもある。

北野博司 #10 北の旅、南の旅 クウィアン(牛車)。ミャンマーの農村では今も現役
当時移住するときに使ったクウィアン(牛車)。ミャンマーの農村では今も現役。

タイ、ラオス間では国境を越えてハー・ナー・ディした人たちも少なくない。故郷の村の近況を話すと思い出話に花が咲く。民衆が土地に縛り付けられない農耕社会というものを経験したことがない私の、稲作農耕民は「定住」との思い込みは見事に打ち砕かれた。私の旅の楽しみはこんな「目からうろこ(が落ちる)」の経験すること、自分の先入観を発見した時に一番心躍る。

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研究者のフィールドもさまざま。同僚の先生はロシアや北海道など、狩猟文化や山の民の生業を研究する。寒いのに冬になると活き活きとしている。

私は夏が好きだ。熱帯の暑気に触れると体に生気がみなぎってくる。国内で体調が悪かったはずなのに、かの地の空港に降り立つとなぜか元気になる。ラオスやイサーンの田園地帯を歩くと心が安らいでいく。

北に向かう人、南を目指す人。二人には狩猟採集民と稲作農耕民の系譜をひく遺伝子がそれぞれ組み込まれているに違いない。
根拠なくそう信じている。(続く)

(文・写真:北野博司)

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北野博司(きたの・ひろし)
北野博司(きたの・ひろし)

富山大学人文学部卒業。文学士。
歴史遺産学科教授。
 
専門は日本考古学と文化財マネジメント。実験考古学や民族考古学という手法を用いて窯業史や食文化史の研究をしている。
城郭史では遺跡、文献史料、民俗技術を駆使して石垣の構築技術の研究を行っている。文化財マネジメントは地域の文化遺産等の調査研究、保存・活用のための計画策定、その実践である。高畠町では高畠石の文化、米沢市では上杉家家臣団墓所、上山市では宿場町や城下町の調査をそれぞれ、地元自治体や住民らと共に実施してきた。
自然と人間との良好な関係とは、という問題に関心を寄せる。