愛の行方-米沢城跡の今に思う|駆けずり回る大学教員の旅日記 #09/北野博司

コラム 2021.07.21|

わが学科では毎年、5月の連休明けに新入生と教員全員がフィールドワークに出かける。

今年はコロナ禍、対策をとりながら連休中の5月3・4・5日に実施した。5人の教員が6~7名の学生とチームを組み、あらかじめ設定したテーマでフィールドを歩き、歴史的景観の見方やフィールド調査の方法を学んでいく。例年は県外に出かけるのだが、今年は宿泊学習ができないので県内の山形城下町、上山城下町、米沢城下町を歩いた。

山形県内の都市を歩いていて驚くのは近世、近代の街並みがよく残っていることである。それは都市部が戦災にあっていないことが大きい。街並みの随所に近代はもとより江戸期の城下町の名残りを求めることができる。

400年前の城下町絵図を持って、街路や地割、水路網を比べながら歩くのは贅沢な時空の旅といえる。かつての商人町、職人町は短冊形地割と呼ばれる間口の狭い細長い敷地が特徴で、道路に面する母屋は近代的な店舗、住宅に変わっていても、奥を覗くと土蔵がそのまま残っていたりする。間口が狭いので裏にある建物が取り壊せないのだろう。往時の町屋の土地利用のあり方がよくわかる。先が見えない細い路地歩きは、わくわく感があって楽しい。住民にとっては見慣れた風景でも、よそ者にとっては近世城下町の記憶を発見したり、近代の歴史建造物が見られるこんな面白い町はない。

三都はそれぞれ固有の自然地形の上に400年の歴史が重層して現在に至っている。都市の日常の風景からどうやって時々の人々の暮らし、移ろいを読み取っていくのか。歴史を再発見していく面白さを体験してほしいというのがこちら側のねらいである。

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今回は私のチームの3日目、米沢でのことを紹介したい。

朝、米沢駅に集合した学生たちと東の寺町界隈を歩き、寺院建築の見方と、「万年堂」が立ち並ぶ米沢独特の墓地景観について学んだ。それから米沢城跡まで歩いて一つの課題を出した。
本丸にあるあらゆる工作物を記録して、そこから何が読み取れるか考えてみよう」。

山形県民であれば米沢城跡には一度は行ったことがあるだろう。1886年(明治19)竣工の舞鶴橋(アーチ型の石橋で国登録有形文化財)を渡るとまっすぐ伸びた参道の先に鎮座する上杉神社が見えてくる。もともと本丸南東隅にあった藩祖上杉謙信の祠堂を、1876年(明治9)に移転、新築したものである。

北野博司 #09 米沢城跡本丸の景観。舞鶴橋を渡るとまっすぐ伸びる上杉神社の参道と一の鳥居が見える
米沢城跡本丸の景観。舞鶴橋を渡るとまっすぐ伸びる上杉神社の参道と一の鳥居が見える

藩政期には本丸御殿があった場所である。当初、県社として「為せば成る、為さねばならぬ何事も・・・」の上杉治憲(鷹山)を合祀したが、1902年(明治35)年、別格官幣社(明治の社格制度で国から祭費などが支給される官社の一つ。祭神は国家に功績のあった忠臣や武将らで、広く国民からの崇敬を受けている者)になる時に、鷹山は二ノ丸跡に新築された松岬神社の主祭神として分祀された。本丸南西隅には上杉家の氏神を祀る春日神社が、上杉神社に隣接して赤鳥居が並ぶ福徳稲荷神社もある。米沢城跡といえば、神社をイメージする人が多いのは、本丸跡、二ノ丸跡に神社が林立しているからであろう。

北野博司 #09 本丸御殿跡に鎮座する上杉神社
本丸御殿跡に鎮座する上杉神社

私は山形にきて20年以上たつが、ここに来るたび不思議な感覚におそわれる。

一つは城跡と神社との関係である。城跡に藩祖を祀る神社があるのは珍しくない。上田城跡の真田神社、熊本城跡の加藤神社、金沢城跡の尾山神社。みな、明治維新後、藩祖を祀り、顕彰するために城内に社が構えられた。しかし、神社が本丸の中枢部に鎮座し、今も「場」のメインビジュアルとして崇敬されている所はないのではないか。

もう一つは、いわゆる「国持大名(江戸時代の大名の家格で、徳川御三家等を除き、広い領国を持つ大身の大名をいう。18家とも20家ともいわれる。)」に列せられる上杉家の居城が国の史跡(日本の宝として保存・活用される遺跡)に指定されていないことへの違和感である。

文化庁(前身は文化財保護委員会)は昭和30年代から全国の城跡の史跡指定を積極的に進めていった(『遺跡学の宇宙』日本遺跡学会)。石高の大きな大身の大名の城はだいたいが国指定史跡である。無指定の米沢城跡は史跡に値する価値がないのだろうか(注:国持クラスの無指定には越前松平氏の福井城跡、佐竹氏の久保田城跡がある。前者は本丸に県庁や県議会議事堂、県警本部が建ち並ぶが、近年御廊下橋や山里口門が復元され、お城の景観を取り戻しつつある。10年後の県庁等の移転、城址公園としての整備が目指されている。久保田城跡は市指定名勝「千秋公園」として保存されている)。

米沢城跡は宗教法人によって神社として、米沢市によって「都市公園・松が岬公園」として整備されているが、文化財としての整備は行われていない。多くの人が抱く「城らしくない」のイメージはそのためであろう。

一方で、強烈に感じられるのが「上杉愛」である。
NHK大河ドラマ「天地人」の時に上杉景勝の智将-「愛」の前立てを持つ直江兼続の兜が有名になったが、ここには確かに「愛がある」。それは米沢市民の愛。本丸正門の東門を入ると上杉謙信の銅像はもとより、鷹山、景勝、兼続の銅像がある。近年は「かねたん」(直江兼続のマスコットキャラクター)の石像ベンチも置かれた。郷土の発展に貢献した上杉家およびゆかりの武将たちを総動員している。

北野博司 #09 上杉謙信像
上杉謙信像
北野博司 #09 NHK大河ドラマ「天地人」にちなみ建てられた上杉景勝と直江兼続の銅像
NHK大河ドラマ「天地人」にちなみ建てられた上杉景勝と直江兼続の銅像
北野博司 #09 愛の兜をつけた「かねたん」石像とベンチ
愛の兜をつけた「かねたん」石像とベンチ
北野博司 #09 上杉鷹山像
上杉鷹山像

ちなみに、上杉家歴々の銅像にまじって「伊達政宗公生誕の地」の石碑もあって、何だかよくわからない状態になっている。米沢時代の伊達家は会津街道沿いの舘山に城を築き、山麓に武家屋敷や城下町を整備していた。この舘山城跡は平成28年に国史跡となり、現在、整備にむけて調査が進められている。

全国の城跡は、1873年(明治6)1月に新政府太政官から出されたいわゆる「存城廃城令」によって、国の軍事拠点として利用するものと、そうでないないものに仕分けされた。後者は大蔵省(のちに内務省)所管となり、もはや無用の長物となった櫓や門などは民間に払下げ、城跡の土地利用は地方に委ねられることとなった。各府県の対応は素早く、政府に願い出て、堀を埋めて田にしたり、土塁や郭を開墾して畑と利用した所が少なくない。明治5年の陸軍省による全国調査の絵図からは建造物取壊しや開墾の様子がよくわかる(『富原文庫蔵陸軍省城絵図』戎光祥出版)。

当の米沢藩は、1871年(明治4)3月に、建造物の取り壊しと開墾、養蚕のための桑植を願い出ている。さらに廃藩置県によって成立した置賜県では、1973年(明治6)廃城の通達が出るとすぐに、大蔵省に対して、土地を政府の公告に則り奇樹珍草を植えて人民偕楽の公園にしたいと申請した。これは、存城廃城令に続けて太政官から出された公園設立の布告に基づいている。政府は民衆たちが遊覧する各地の景勝地等(城跡は想定されていない)を公園にして整備することを推奨したのである。ここで注目されるのは、城跡を公園にしたい申請したのは置賜県が全国で最も早かったことと、その申請書(米沢藩知事上杉茂憲)に「廃城ノ古跡ヲ千古に存セン」と城跡を旧蹟として保存することを目的にしていることである。米沢の民衆は最後の藩主茂憲が東京に移る時、別れを惜しみ悲しんだという。特に地元に残った旧藩士たちの上杉家への思慕の念はかなり強かったといわれる。その延長で明治9年に、県社上杉神社を本丸の中枢部に置くことになったのである。社殿の建設は民費で賄われた(以上、野中勝利「1873年の「廃城」と城址の公園化に関する研究」『都市計画論文集』№42-3)。

旧体制の象徴だった近代の城跡は建物の取り壊し、開墾によって急速にその威容を失い、国や郷土のために戦った戦死者の供養・慰霊の場、旧藩士、民衆らによる藩主らの顕彰の場となっていった。米沢城跡の近代を石碑・銅像からたどってみよう。

明治11年 招魂碑(戊辰戦争・西南戦争供養碑)
明治17年 浅間厚斎之碑(大砲製造、鉄砲総支配役-浅間厚斎の顕彰碑)
明治20年 曽根魯庵先生碑(戊辰戦争で戦死した儒学者の顕彰碑)
明治24年 (上杉謙信)祠堂遺址碑
明治24年 従三位上杉曦山公之碑(12代藩主斉憲顕彰碑)
明治29年 甘棠之碑(甘棠会)甘棠とは為政者の徳を称えること
明治39年 貞愛親王殿下親栽之松碑
大正2年 皇太子嘉仁親王殿下御大婚祈念之松碑
大正12~13年 上杉神社再建に伴う設置物多数
昭和35年 鯉供養之碑
昭和49年 上杉謙信公之像
昭和53年 謙信公四百年祭献燈等
昭和62年 赤穂事件殉難追悼碑
平成4年 上杉鷹山公之像
平成23年 「天地人」上杉景勝公像と直江兼続公主従像
平成30年 かねたんベンチ(直江兼続四百回忌、かねたん生誕十周年記念)

建立主体は藩主の顕彰会や地元のライオンズクラブなどで、これらは記念碑・顕彰碑の一部にすぎない。本丸北東角の三階櫓(米沢城のシンボル)跡地には明治24年、旧藩士らによって幕末の12代藩主斉憲の遺徳をしのぶ巨碑が建立された。江戸(東京)の名工「宮亀年」の刻字である。

北野博司 #09 三階櫓跡に建つ上杉曦山公の顕彰碑
三階櫓跡に建つ上杉曦山公の顕彰碑

米沢城跡にみられる近現代の工作物の集積度合いは他城の追随を許さない。日本近代の城跡が背負ってきた宿命を見事に具現化しており、今もその顕彰活動が続いていることが特筆される。上杉家の城跡という「場」が、米沢の人々のアイデンティティとなり、顕彰活動を通して郷土愛を再生産していく装置として機能している。

米沢城跡には2001年(平成13)オープンした総合文化施設「伝国の杜」がある。米沢市上杉博物館(市立)と置賜文化ホール(県立)が仲良く一つの建物になっており、歴史文化学習、芸術活動の殿堂となっている。

北野博司 #09 御城印が置いてある観光案内所。ゆかりの武将たちの旗が並ぶ。直江兼続に「公」は付けない。
御城印が置いてある観光案内所。ゆかりの武将たちの旗が並ぶ。直江兼続に「公」は付けない。

1998年(平成10)、施設建設に先立って文化財保護法に基づく事前の発掘調査が県と市それぞれの分担で行われた。最大のトピックは埋没していた二ノ丸東堀跡から「堀障子」が検出されたことである。当時は考古学会、城郭史学会でも大きなニュースになった。堀障子とは堀底に障子のように細かく仕切った土手を設け、侵入した敵兵の自由な移動を妨げる装置である。貯水も兼ねていた。戦国期に関東にあった後北条氏の城にルーツがあるといわれるが、近世初期の城郭にも用いられた。有名なのは豊臣大坂城の大手馬出しの障子堀である。大坂冬の陣の講和で徳川方がこれを一気に埋め戻し、夏の陣での豊臣家は滅亡した。伊達時代の米沢城の姿はよく分かっていないが、少なくともこの障子堀が作られたのは、関ケ原後、上杉氏の米沢入部後のものであることが発掘調査で明らかとなっている。米沢城の縄張りには本丸・二ノ丸の出入口に3か所の「馬出し」という施設がある。秀吉の大坂城や家康が作らせた名古屋城にもある、当時の最高の防御、攻撃施設だった。米沢城跡の見どころの一つであるが、今はその面影を感じるのは難しい。戦後、米軍が撮影した航空写真には出郭の堀の痕跡が良く残っている。

北野博司 #09 左:米沢城の馬出と障子堀が検出された場所(○○○年○○絵図『米沢城-上杉氏の城ー』米沢市上杉博物館)/右:戦後の航空写真(昭和23年撮影、国土地理院)にみる米沢城跡
左:米沢城の馬出と障子堀が検出された場所(寛政三年(1791)「御城内明細御絵図」『米沢城-上杉氏の城-』米沢市上杉博物館)  /右:戦後の航空写真(昭和23年撮影、国土地理院)にみる米沢城跡

米沢城はお城の正面に「上杉城史苑」という物販、飲食施設があって観光客でにぎわっている。事前の米沢市教育委員会による発掘調査では米沢藩の支藩である新田藩主駿河守家の屋敷の一角が検出された。調査後は現在の姿である。
このように二の丸の発掘調査で検出された数々の遺構は「記録保存」となり、往時の姿が顕在化することはなかった。それは県や市の行政判断であり、県民、市民の合意だったのだろう。米沢城跡の遺産をどのように将来に伝えていくのか。二ノ丸、三の丸を含めた米沢城跡の保存と活用は大きな課題である。もう少し違った米沢城跡の姿を見てみたいと思うのは私だけだろうか。

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ところで、学生たちの当日の課題、2時間ほどで40余りの石造物を調べてきた(実際は優に2倍はあろうか)。初めて訪れた城跡で、近代の遺産の多さにギャップは感じるのではないかと思ったが、意外と素直に受け入れていた。城跡は戦国、近世の歴史だけを学ぶ場ではない。そこには近代、現代の地域の人々の想いが凝縮されている。我々はなぜ過去を記念し、顕彰し、称揚するのか。歴史遺産を保存し、活用することは現代や未来の地域にとってどんな意味があるのか。この学科で学ぶ本源的な問いがそこにあることを感じてくれたのなら目的は達したことになる。(続く)

(文・写真:北野博司)

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北野博司(きたの・ひろし)
北野博司(きたの・ひろし)

富山大学人文学部卒業。文学士。
歴史遺産学科教授。
 
専門は日本考古学と文化財マネジメント。実験考古学や民族考古学という手法を用いて窯業史や食文化史の研究をしている。
城郭史では遺跡、文献史料、民俗技術を駆使して石垣の構築技術の研究を行っている。文化財マネジメントは地域の文化遺産等の調査研究、保存・活用のための計画策定、その実践である。高畠町では高畠石の文化、米沢市では上杉家家臣団墓所、上山市では宿場町や城下町の調査をそれぞれ、地元自治体や住民らと共に実施してきた。
自然と人間との良好な関係とは、という問題に関心を寄せる。