東北芸術工科大学芸術学部企画展

齋藤眞成 SHINJO SAITO|一心觀佛

「自在なる佛」 宮本武典

嵯峨野の山際にある木造の画室。机の上には、謎めいた梵字が記された紙片や、手のひらで粘土を握りつぶしたような彫像があり、台所へと続く暗い廊下におかれた卒塔婆か、塔を描いた板絵が、「……」と、言葉にならない呻きを発していた。書架にはクレメンテに、ラスコーに、ピカソ。そして80歳の記念に出版された分厚い画集。壁には描きかけの大作が4枚、たてかけられている。黄砂のような土色の余白に、覆いかぶさるように綴られているのは、仏典からの引用だろうか。かろうじて判読できる「苦海」に続く「恋」の文字に、どきりとする。蛍光灯の青白さが気になって、厚いカーテンを開けると、春の京都は小雨に打たれ、生け垣の緑が濃く輝いていた。どこからか山鳩が啼く声が聞こえた。

画室の主・齋藤眞成画伯は、阿弥陀信仰と、沸き立つような紅葉で名高い、天台宗の名刹・京都真正極楽寺真如堂の東陽院第30世住職であり、現在は貫主を務める仏僧である。人間の業をテーマにした寓意画を経て、「潜在的に、御仏の姿を探しているうちに」声明の響きに似た、明滅する光と形の抽象性に辿り着いたという。

制作は、いつも火気のない、シンとした画室で、まず床にひろげられた白い紙に、バシャリと、筆洗のグレーに染まった水を浴びせかけることからはじまる。(私たちは山形でその音を聴くだろう)その一点の染みから、終わりのない阿弥陀詣の旅がはじまり、細い手に握られた毛羽立った筆が、画面の見えないカタチをなでると、紙の上に餓鬼が生まれ、次の瞬間には佛に変容する。

東陽院での厳しい務めを離れた、精神の密やかな彷徨でありながら、静々と無音のうちに執り行われる古い祭のように、繰り返し、繰り返し、「佛」のフォルムに帰結していく画業。その絵の前の立ち姿は、私のイメージの中で、絵画にsublimeを希求したニューヨーク派の、孤独で偉大な絵画史と奇妙な符合をみせる。いずれも禁欲的で、色彩の深みに降り切ったような、高潔な闇と光を孕む。

眞成翁は今年で90歳。既に良寛の年齢をこえ、ますます自由偏在、凪の訪れは遠い。展覧会は、これまでバルセロナ、リスボン、ニューヨークを経て、近年ではご母堂の里である鶴岡をはじめ、山形県内で度々開催されている。本展「SHINJO SAITO|一心觀佛」では、学生たちにとって、曾祖父の年齢ともいえる眞成師の絵画群を、私は有象無象が惑うこの現代社会に供する、一種のポトラッチに見立てて展示してみるつもりだ。
[東北芸術工科大学学芸員]

会場風景(東北芸術工科大学ギャラリー)|手記とともに展示された齋藤眞成の作品群

会場風景(東北芸術工科大学ギャラリー)|展覧会の運営は洋画コースの授業の一環としておこなわれた

上:会場風景(東北芸術工科大学ギャラリー)|手記とともに展示された齋藤眞成の作品群
下:会場風景(東北芸術工科大学ギャラリー)|展覧会の運営は洋画コースの授業の一環としておこなわれた

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