文芸学科Department of Literary Arts

今日からの逃避行
小林丈朗
山形県出身 
トミヤマユキコゼミ

<本文より抜粋>
8月6日 旭川を出発して三十分。外界から四角く区切られた車窓には、一面緑の広大なジャガイモ畑が流れ去っていく。我が家の畑では一角にぽつんと植えられていたジャガイモが、ここでは見渡す限りに並び、真夏の太陽の下で収穫の時を待っている。リュックから駅で買った蟹弁当を取り出した。ズワイガニとタラバガニ、そして花咲ガニのほぐし身が酢飯の上にのったシンプルな蟹駅弁。本来は三種のカニが行儀よく酢飯の上に整列してるはずだが、列車に乗る時に乱暴に扱いすぎてしまった。赤いほぐし身ときめ細かい薄ピンク色のほぐし身、そして赤く肉厚な身が散乱している。だがそんなものは重要ではない。口に入れれば同じだ。割り箸で三種の身を掴み口に運ぶ。途端に蟹の旨味が口いっぱいに広がった。余計なものは何もない、ただボイルしただけの蟹。だがそれで十分。ふにふにとした食感と蟹の甘み。その高級な風味をこの小さな弁当で味わえる喜び。こんどは赤く肉厚な身だけをつまむ。これが花咲ガニか。口に入れると思い返す正月の記憶。我が家では元旦には蟹がでた。スーパーマーケットから買ってきた冷凍ボイルの蟹だが、それでも贅沢な体験だ。冷凍の蟹でもその風味を楽しむことができる。だが、この花咲ガニは、身の欠片ですらも噛むごとに蟹の風味が口の中を満たす。ああ、ずっと噛んでいたい。奮発して千円近い駅弁を買ってよかった。俺はその小さな幸せに浸っていた。向かい側の席に座る老夫婦もまた、弁当を開いて幸せに浸っているようだ。たまに箸を休めて車窓を眺めて談笑するのだから間違いないだろう。いつしか口内の蟹は食道へと消え、さっきの小さな幸せもどこかへ行った。多分、弁当に箸を戻せばまたあの幸せはやってくる。だが最終的にこの空虚でどうしようもない心情に帰結する。それは明らかだった。日常から逃げている。自覚もある。それでも、何かに引き寄せられるように北へ向かっていた。