文芸学科Department of Literary Arts

箱庭的思考法による自己治療についての考察
笹羅彩花
宮城県出身 
トミヤマユキコゼミ

<本文より抜粋>
男は少女のことを何も知らなかった。日がな一日、大抵はニュースを見ながら、薄汚れて蔦が這うアパートの狭い一室でだらりと寝転んで過ごしていた。いかにも前時代的なざらついた黄色の壁に傾いて冷めた太陽が射す頃、男は初めて時間の経過を悟って姿勢を正す。正すと言ってもせいぜい体を起こして胡坐をかく程度であるが、ともかく少しばかり人間らしくしてドアを注視する。その内にドアノブを回す音が響き、ただいま、と言って彼女が帰ってくる。少女は近くのスーパーの白い買い物袋の中から総菜のトレイをいくつも出し、炊飯器を開けて白飯をよそった。彼らの生活に朝も夜もなく、各々がそうしたい時間に示し合わせたように寝食を共にする。この部屋は、時間という概念に合わせて動く外の世界からは完全に切り離されていた。男は食器を取りに台所に向かう背中を眺めた。もうすっかり大人であるようで、まだあどけなさの残るこの少女と出会ってから数週間が経とうとしている。夕焼けのオレンジ色があの日の錆びた自身の心情を思わせた。――赤い糸はね、本当は勝手に繋がっているものじゃないのよ。二匹の白い鳩が端と端を咥えて結んでくれるものなんですって。男の妻は、折に触れてその言葉を口にしていた。結婚しても若いカップルを探しては糸を繋ぐ鳩を探すように空を見るのが日課で、男はいい歳になってなお夢見がちなことを楽しそうに口にする妻へ、日に日に苛立ちを募らせていた。料理は上手いがそれだけだ。掃除は出来ない、冷蔵庫の食品の管理は出来ない、洗い物を一日二日溜め込むのは当たり前で、それらを少し注意しただけで自分が被害者であるかのように男を詰る。昨夜もそうだった。男の堪忍袋の緒が切れて怒鳴った後、逃げるように向かった夜勤を終えて帰ってみれば、家は素っ気ない手紙と携帯電話を残してもぬけの殻になっていた。義理の両親が買った家に住み続けるのは気が進まなかった。それで男は放心状態のまま白昼の繁華街をうろついている。彼の頭上をカラスが旋回していた。すぐ側にゴミ捨て場があった。周囲の居酒屋で夜出たものが積まれているに違いなく昼前だというのにまだ収集車は来ていない。男は眉をひそめて踵を返した。