文芸学科Department of Literary Arts

フィルムに映る波の花
佐藤史織
宮城県出身 
トミヤマユキコゼミ

<本文より抜粋>
 黒縁の眼鏡をかけた担当医が、眼底写真を観察しながら、「若干進行していますね」と言った。彼の横顔から目を逸らし、眼底写真に目を向けた。橙色の円が二つ並ぶ透明なフィルム。朱色の細い線がいくつも見える。私のものではなく、誰かの瞳の内部を覗き見しているような気分だ。診察を受ける度にそう感じる。素人の私からすれば、以前の検診と比べ、なにも変化していないように映る。どこが違っているのか教えてほしいくらいだ。自分の問題なのに言葉だけでは病気が進行している実感が持てず、担当医と同様、「そうですか」と他人事みたいな返事をし、向き直った。彼はボールペンで書類に文字を書いていた。初めての診察もこんな感じだったことを思い出す。高校生の頃、目に違和感を覚え、診察を受けたら、失明の可能性がある病気にかかっていると告知された。地道に治療すれば病気の進行を抑えられるらしい。それ以来、二か月に一回通院している。「毎日、目薬はさしていましたか?」「はい、毎日欠かさず」「そうですか」担当医の目尻にはしわが三本ある。実年齢は知らないけれど、おそらく三十代後半か四十代だろう。冷たい横顔を見詰め、次の言葉を待っていたら、薄暗い診察室の雰囲気と相まって、「若干」が気になりだし、「進行」という言葉が現実味を帯び、嫌な考えが次から次へと浮かんだ。どれくらい進んでいるのだろう。来年か、来月か、それとも明日には視力を失うのだろうか。「進行していると言っても、ほんのすこしなので大丈夫ですよ」担当医は私の不安を察したのか、胡散臭い微笑みを私に向けた。若干や、ほんのすこしなど、曖昧な程度よりはっきりしたこと言ってほしい。たとえば、かたつむりが五秒間に進む距離とか、このままいくと三年後には失明しますとか。はっきり言ってもらえれば気持ちの整理がつく。でも具体的な説明を要求することはできず、無難に「そうですか」と返した。「治療、頑張りましょう。いつものように、目薬、出しておきますね。それではお大事に」私は担当医に会釈し、おずおずと診察室を出た。扉を閉める直前、もう一度おじぎをしようとしたが、彼はもう私のことなど見ていなくて、冷淡な眼差しで机の上を整理していた。