感染症の歴史研究者 竹原万雄が語る 「with コロナ時代」への向き合い方

インタビュー 2020.08.31|

2020年、世界中が新型コロナウイルス感染症の渦中にあります。

歴史遺産学科の竹原万雄(たけはら・かずお)准教授は、日本で江戸時代後期から明治時代にかけて流行した感染症・コレラについて、史料の読解・分析を行う研究者です。コロナ禍の昨今、明治期のコレラについて書かれた竹原先生の著書が注目を集めています。

本館内の研究室を訪ね、先生が感じる歴史を学ぶ醍醐味や、コロナ禍にあって感じたことなどをお聞きしました。

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自分の考えが及ばないものへの興味から研究の道に

――竹原先生は疫病の歴史の研究者として知られていますが、ご自身の専門分野はどういったものでしょうか

竹原:私の専門分野は大学の卒業研究から変わらず、日本の江戸時代から明治時代にかけての医療衛生史、なかでも感染症の歴史です。

――感染症の歴史に興味を持ったきっかけは、どんなことだったのでしょうか

竹原:あまり深い考えはなかったのですが、もともと不可解なものに理屈を付けていくようなことが好きだったんです。例えば、推理小説の密室殺人のようにあり得ない状況に理屈が付いていくような謎解きとか。自分の考えが及ばなかったり、ひっくり返るような発想に興味があったんですね。

江戸時代、人々は病気がどういうものなのかはっきり分からないので、疫病神の仕業ではないか?などと考えてさまざまなものに祈りました。それが、明治時代になると西洋医学が入ってきて、病原菌も発見されるようになりました。そういう変化を人々がどうやって受け入れていったのか、病気の理解の仕方や病気になったときの心の変化に興味があって、それが感染症の研究につながり、特にその時代に流行っていた「コレラ」を主に研究してきました。

with コロナ ウィズ・コロナを語る 竹原万雄(たけはら・かずお)
竹原万雄(たけはら・かずお)歴史遺産学科准教授。

――コレラが入ってきて、当時の日本社会はどんなふうになりましたか?

竹原:コレラが日本で初めて流行したのは、江戸時代の後期、19世紀の初めです。コレラは感染力が強く致死率は60%以上、感染すると2~3日で亡くなってしまうこともありました。ここが致死率2%ほどの新型コロナとはずいぶん違います。当時は外国人が毒を流しただとか、狐の仕業しわざたたりなどといったデマが広まったりしました。

――新型コロナは治療法やワクチン研究開発を進めていますが、その当時のコレラの対処法は?

竹原:基本的には、体を温める、食べ物に注意するといった対処でしのぎました。明治に入ってからコレラ菌が発見されましたが、明確に効く薬は見つかりませんでした。19世紀半ばから終わりにかけて数度の流行がありましたが、20世紀以降は流行することも少なくなりました。

教科書には書かれていない「民衆の歴史」

――先生の研究されているような歴史は、高校までの教科書ではほとんど取り上げられないですよね

高校までの教科書では貴族や幕府、明治政府といった「支配者」の歴史が中心に描かれますが、それよりも民衆の歴史に興味がありました。

コレラとの関連では、「コレラ騒動」に関する研究が代表的なものとして挙げられます。明治政府は西洋医学と一緒に感染症予防も欧米から導入しました。現在も実施される消毒や隔離も、この時に導入されました。しかし、人々は家族と引き離されて隔離されたり、家中いえじゅう消毒されることに抵抗します。「隔離病院では内臓をとられて外国に売られるらしい」、「消毒薬が実はコレラの原因なんだ」といったデマも流れました。しかも、当時の感染症予防は警察が中心になって強制的に進められました。その結果、各地で警察などと衝突する「コレラ騒動」が起こりました。

この騒動は、江戸時代以来の慣習を信じて新しい西洋文明を受容できない当時の民衆の心性がはっきりと表われます。この民衆の心がどうやって西洋医学を受け入れるようになるのか、といった心の変化に興味を持ちました。当時の人が書いた日記が一番良い史料ですが、そういった日記はなかなか見つかりません。ですので、当時の新聞記事を読みながらコレラを巡る民衆の行動や心性を読み取っていきました。

with コロナ ウィズ・コロナを語る 竹原万雄(たけはら・かずお)明治時代の『新潟新聞』
『新潟新聞』[明治19年(1886年)8月10日・新潟県立文書館蔵]。警察や村長が予防に尽力するなか、人々は患者がいても隠蔽することが報じられている。

しかし、民衆の行動を知るためにも、隔離や消毒を進める政府の対策を理解しておく必要があります。そこで行政文書なども見ていったのですが、そうしたら意外にも民衆の抵抗に理解を示しながら対策を試行錯誤する政府の姿も見えてきました。そこで、「支配者」の政策を追いかけるのも面白いことに気付きました。

ですので、政府の対策と民衆の動向を照合しながら、感染症を巡る社会の様子を見ていくのが一つの研究スタイルになりました。

コロナ禍の渦中に見えた「厄介な問題」

――コロナ禍について、歴史学の研究者の立場から感じることはありますか?

竹原:私がコレラ流行についてじっくり研究しているのは明治初頭から30年間くらい、19世紀末くらいまでです。当時の史料を見ていてよく問題として挙がっているのは、患者の隠蔽です。

コレラに罹患すると、行政に届け出ないといけないわけですが、患者やその家族はそれを隠そうとするわけです。その理由としては、隔離されたくないということが挙げられます。当時の隔離施設は掘っ立て小屋のようなものであったり、医者や看護師が十分にいなかったりなど、とても劣悪な環境でした。また、現在のコロナ禍と同様に、患者になったら働くこともできません。

with コロナ ウィズ・コロナを語る 竹原万雄(たけはら・かずお)明治期のコレラ流行について書かれた古文書
明治15年(1882年)のコレラ流行について書かれた古文書。宮城県牡鹿郡の流行の様子が詳細に記録されている。

そして一番厄介なのが、患者になることで周りから避けられてしまうことです。現在でいうところの患者の「差別」です。「差別」されたくないから隠す。隠蔽行為は、現在のコロナ禍では表立って見えてきませんが、差別は今も報道されますよね。しかし、この行為を「差別」と言ってよいかどうかには疑問があります。

感染していない人にとって、患者に近付くことは感染リスクを高めることになります。口や態度に出して露骨に傷付けるのは違うと思いますが、患者を避ける行為自体は自分を守るためには一概に否定できません。ここが感染症を巡るとても厄介な問題だと思います。

そこで政府がとった対策が、家を一軒一軒チェックして患者がいないかを探しだす戸口ここう調査です。ここには人権問題が絡んできますが、患者を放っておくと感染が拡大してしまいます。新型コロナの場合は致死率が2%程度ですから、強権的な対応は極力控えられているのかもしれませんが、これが60%となるとそうもいかなくなると思います。命か人権かの選択を迫られることになりますから。

人類はコロナ禍の先に何を見るか。歴史研究者の役割とは

――コロナ禍を経験して、人類はどのように変容すると思いますか?

竹原:ワクチンができて、コロナ以前の生活に戻れるなら、それがベストだと思います。しかし、それが叶わないのであれば、人同士が距離を取ることは当たり前になっていく気がします。

――距離を置くようになると、大学教育にもさまざまな影響がありそうですね

竹原:そうですね。例年、新入生とは、宿泊を伴う「フィールド・トリップ」を5月に行っていましたが、今年はそれができなかったので、7月末にようやく山形駅近隣を歩く「フィールド・ウォーク」を実施しました。感染リスクに気を付けながらも、できるだけフィールドで本物に触れる経験はしてもらいたいと思っています。

with コロナ ウィズ・コロナを語る 竹原万雄(たけはら・かずお) 歴史遺産学科1年生を対象に行われた「フィールド・ウォーク」
歴史遺産学科1年生を対象に行われた「フィールド・ウォーク」の様子。

――コロナ禍から得られるプラスの要素があるとすれば何でしょうか

竹原:いいこともあるとは思います。例えば、遠く離れた現地に行かなくても、その土地に住む方々から話を聞くなんてことができるようになりました。しかし、やはり話を聞くには現地で、話を聞く人の生活のなかで聞かないと、本質的な話はできないと思います。遠くの人とつながりやすくはなったのですが、その一方で、対面で話すことの重要性も再認識させられているように思います。

with コロナ ウィズ・コロナを語る 竹原万雄(たけはら・かずお) 著書『明治時代の感染症クライシス:コレラから地域を守る人々』(2015年 蕃山房)
竹原先生の著書『明治時代の感染症クライシス:コレラから地域を守る人々』(2015年 蕃山房)。
明治15年(1882年)にコレラが大流行し、全国で死者は33,784人、宮城県では2,361人にのぼった。本書は、宮城県石巻地区で感染症予防に奮闘した、医師、警察、有志の人々の姿を描いている。

――この時代、歴史研究者にはどのような役割があると思いますか

竹原:過去の検証と今の記録が大切だと思います。スペイン・インフルエンザを取り上げながら、感染症についても「歴史に学ぶ」という言葉がマスコミでちょこちょこ見受けられますが、それはコロナ禍になってからです。過去と同じようにデマが流れ、患者「差別」も見られ、それで「同じ過ちを繰り返している」、「歴史に学べ」と言われますが、結局、一過性のもので学んだ結果、どうするかまでは詰め切れていない気がします。

感染症の悲劇は、自然災害以上に歴史に残りにくいと思います。緊急事態宣言解除後の緩みを見るなかでも同様に感じました。例えば、東日本大震災であれば3月11日という振り返るべき日があります。しかし、今回の新型コロナはいつがその日になるのでしょう。みんなが悲劇を共有する「記念日」は重要だと思います。それがないと、いつの間にか風化してしまうと思います。過去からの教訓を伝え続けることに加え、現在の記録を未来に残すことが歴史研究として必要だと考えています。

歴史の見方は「経験すること」で変わる

――最後に、学生や受験生に向けてメッセージをお願いします

竹原:今回、不幸にも世界的な感染症の大流行を経験してしまいました。しかし、経験してしまったからには何かに生かしてほしいと思います。経験することで歴史の見方も変わります。例えば、東日本大震災を経験する前の歴史学は、災害が起こる理由や災害時の状況に注目した研究が多かったのですが、経験してからは災害からいかに復興してきたのかに注目するようになりました。今回の新型コロナでも、いまだ収束が見えないなか、過去の感染症をどのように乗り越えて来たのか、乗り越えた後の社会がどうなるかに関心が集まっているように思います。

歴史遺産学科では、本物に触れてリアリティを感じ、問題を探していくことを大切にしています。大学で扱う歴史学が暗記物でないことはどの大学でも同じですが、歴史遺産学科では特にフィールドワークに力を入れていて、その中でリアルな歴史を学べるのが特徴です。

with コロナ ウィズ・コロナを語る 竹原万雄(たけはら・かずお)先生

もう一つ、うちの学科は芸術やデザインを学ぶ大学の中にあります。
コレラ以外に、江戸時代に流行した感染症として疱瘡ほうそう(天然痘・痘瘡とうそうとも言う)がありますが、この病気には「疱瘡絵ほうそうえ」「赤絵あかえ」と言われる錦絵がお見舞いとして贈られたりしました。絵のモチーフには、病気が軽く済むようにとの願いを込めてぴょんぴょんと跳ねるうさぎや軽い音がする豆太鼓、病気を退散させる強面の武士や桃太郎や金太郎といった昔話の英雄が描かれたりしました。こうした錦絵からも当時の人々の病気に対する心性を推測することができます。アーティストと身近に話せる芸工大なら、こうした絵画史料を新しい視点で読み解くヒントが見つかるかもしれません。

with コロナ ウィズ・コロナを語る 竹原万雄(たけはら・かずお)「疱瘡絵」が描かれた手ぬぐい。この絵は浮世絵師として有名な歌川国芳(うたがわ・くによし)によるもの。
研究室に飾られていた、「疱瘡絵」が描かれた手ぬぐい。この絵は浮世絵師として有名な歌川国芳(うたがわ・くによし)によるもの。実物は江戸東京博物館にある。

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感染終息の時期が見通せない中、私たちは今後どうしていけばいいのか――。過去の歴史はその手掛かりとして、さまざまな示唆を与えてくれます。今回竹原先生のお話をお聞きして、歴史研究の意義について改めて感じ入りました。

正に今私たちが紡いでいる、コロナ感染症を巡る歴史。後世でどのように語られるかは、今を生きる私たちの手に委ねられています。
(取材:地域連携推進課 遠藤)

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東北芸術工科大学 広報担当
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