秋への思い入れがほとんどないので、この季節は非常に困る。何に困るって会話で「寒くなりましたね」と話しても、多くの東北の人々にとってこの時期はまだ寒くないわけである。私などすでに何枚も着込んでいて寒さ対策を完璧にしているにも関わらず、Tシャツ1枚で生きている人とは体感が一致しないことになる。コンビニに行くと半袖で買い物に来ている人もいるので、ただただ驚くしかない。
一番困ったのは冬に人間ドックに行ったとき、貫頭衣みたいなものを身につけて院内を移動するわけだが、あまりにも寒くて閉口し、看護師さんにお願いしてコートを着させてもらったことがある。もちろん周囲でそんなことをしている人は皆無であった。というマイナスな話を続けても得ることはないので、仕切りなおすと秋と言えば学園祭である。
ラジオを聞いているとこの10月から11月にかけてあちらこちらの大学で学園祭が開催されるようで、しかもコロナ禍になって以降、多くの大学では久しぶりに対面で行われるようである。東北芸術工科大学でも今年は数年ぶりに学園祭が開催され、皆さん、楽しんだのであろう。
曖昧な書きぶりに徹しているのは、私自身は学園祭と縁のない生活をずっと送り続けているので、引け目でも何でもなくフラットに興味がないからである。私が大学生のときは半世紀以上前から続く学生運動の残滓を一掃すべく、組織の資金源となっていた学園祭を大学自体が廃止したので、4年間まったく行われなかった。ここまで行われないと正直なところ興味関心が発生したことがないので、良いも悪いもない。というより大学院生のときに復活したのだが、数万人が訪れる状況は図書館に行くだけで人込みをかき分けるか、遠回りをして移動しなければならなくて、不満のほうが大きかったと言える。
結局のところマイナスなことを書いているが、今回は学園祭の物語を紹介する。
学園祭の楽しさはやはり非日常的な空間が生み出されるところである。それまで日常の空間として存在していた場所が、数日かけてハレの場へと転換されていく過程は非常に興味深いし、何よりそこへ参加する人、運営する人たちのテンションもまた日常とはかけ離れていく。釣巻和さんの『水面座高校文化祭』(全3巻、講談社、2010・2011年)は高校の文化祭を準備段階から描いていく作品である。一番秀逸なのは、学校という空間が日常から非日常へと転換されるだけではなく、日常では起こらない出来事、入ってこないであろう存在が当然のように描かれていくところである。皆さんも日常から離れたときに知らない人となぜか意気投合して盛り上がった経験はないだろうか。その浮遊感が見事に作中で作り上げられている。
そのような浮遊感、お祭り感を小説で描くとしたらどうなるか。その一つの答えを提示してくれているのが、「古典部」シリーズ3作目である米澤穂信さんの『クドリャフカの順番 』(角川文庫、2008年)になる。映像作品やマンガ作品であれば、絵の力で事象や登場人物すらモザイク化されて混濁した浮遊感を生み出すことができるが、小説の場合は視点の切り替えを駆使しなければならない。この作品は主人公たちが通う神山高校の文化祭、通称「カンヤ祭」を舞台に、古典部のメンバーの視点を切り替えながら複数のストーリーを進めていく。情報の出し入れの上手さと物語の展開の見事さで素晴らしき作品になっているのだが、これに感化された学生さんはハードルが高いのできちんと練ったほうがいい。
その昔、教えていた猿渡かざみさんの『塩対応の佐藤さんが俺にだけ甘い』が大ヒットしてから、「先生が指導したんですよね!」と学生さんが勢いよく同じような視点の切り替わる作品を持ってくるようになってしまった。持ってくること自体は良いのだが、多くの場合、視点がかわっているがゆえに同じ出来事をもう一回描いたりするので、ストーリーがまったくもって進まないことが多い。やるなら「カンヤ祭」のわちゃわちゃ感を分析してから取り組もう。
最後に取り上げるのは行われなかった文化祭の話である。北村薫さんの『秋の花』(創元推理文庫、1997年) では文化祭準備中に高校生が亡くなってしまった謎を女子大生の主人公である「私」が寄り添っていく物語である。紹介しながら、こう書くのも悪いのだが、この作品はいきなり読むのではなく、シリーズの最初から読んで欲しい。『空飛ぶ馬』、『夜の蝉』ときて「円紫さんと私」シリーズの3作目になる。連作短編であった1作目、2作目と違い長編作品として書かれており、また探偵役の円紫さんがほぼ最後にしか登場しない点もシリーズとしては異色ともいえるかもしれない。
わかりやすく言うと「パトレイバーは何から見たらいいですか」という質問に対して、「WXIII 機動警察パトレイバー」と答えてしまうようなものである。あの作品もまたパトレイバーの登場はクライマックスになるし、何より特車二課のメンバーはほとんど出てこなくて事件を追う刑事たちの話になっている。そしてパトレイバー映画版の3作目である。
ともあれ学園祭の浮遊感すべてがプラスに描かれていくわけではないということを、この作品は教えてくれるし、皆さんも全員がカーニバル化した空間に順応する必要もない。ちなみに「円紫さんと私」シリーズで主人公の「私」が通う大学、学部は、リアル世界で学園祭が行われなかった私の母校である。
実は今回の原稿を途中まで書いた段階で、コロナワクチンを接種してきて帰宅後に最後まで書き上げている。接種会場で斜め前に座っていた人が手ぶらで裸足にスリッパで、シャツ1枚という注射には最適な恰好をしており、寒くて5枚も着込んでいる自分自身と比べてしまった。その姿で寒くない状況は非常にうらやましいのだが、どうあがいても自分には到達できない域に達している。無理ならちゃんと着込んで、注射を前に「すみません」と言いながらあたふたと腕を出そうじゃないか。何はともあれお祭りでも、なんでも別に他人に合わせる必要はないじゃないか、という話である。
(文・写真:玉井建也)
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第1回 はじまりはいつも不安
第2回 よふかしのほん
第3回 夏の色を終わらせに
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玉井建也(たまい・たつや)
1979年生まれ。愛媛県出身。専門は歴史学・エンターテイメント文化研究。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。東京大学大学院情報学環特任研究員などを経て、現職。著作に『戦後日本における自主制作アニメ黎明期の歴史的把握 : 1960年代末~1970年代における自主制作アニメを中心に』(徳間記念アニメーション文化財団アニメーション文化活動奨励助成成果報告書)、『坪井家関連資料目録』(東京大学大学院情報学環附属社会情報研究資料センター)、『幼なじみ萌え』(京都造形芸術大学東北芸術工科大学出版局 藝術学舎)など。日本デジタルゲーム学会第4回若手奨励賞、日本風俗史学会第17回研究奨励賞受賞。