歴史遺産学科Department of Historic Heritage

空中写真を用いた那須開拓の変遷 ー旧西那須野町を事例にー
内海日香
栃木県出身
田口洋美ゼミ

本研究では、那須野ヶ原開拓の変遷を行政や各地区の動きを調べながら、空中写真を用いて、どのように変化していったのかを明らかにした。空中写真は、昭和21(1946)年、昭和38(1963)年、昭和57(1982)年の使用し、開拓当初は地割が書かれた地図、現在はグーグルマップの航空写真を使用した。さらに、学校や各農場の事務所などを目印にして、空中写真に番号を加えた(図1、図2、図3)。

明治の開拓以前の那須野ヶ原は、ほとんどがススキや茅が生えた原っぱで、水を得るのが難しい土地だった。明治13(1880)年から那須野ヶ原の開拓が始まり、明治15(1882)年に飲用水路が完成、明治19(1886)年に灌漑用水路(那須疏水)が完成したことで、那須野ヶ原に移住してくる人が増えた。本研究で研究対象とした旧西那須野町は、明治の開拓に大きな影響を与えた2人、印南丈作と矢板武が設立した那須開墾社の土地が含まれている。

各年代の空中写真を分析したことで、駅周辺と縦道(現ライスライン)周辺との変遷に違いがあることが分かった。

駅周辺は、時代を経るごとに住宅の範囲が増えていった。しかし、住宅が増える代わりに、田畑は急激に減少していった。明治14(1881)年に日本鉄道会社が創立したことで線路が開通、明治19(1886)年に那須停車場(現西那須野駅)が開設したことが、駅が近いという利点を求め、移住してくる人の増加に繋がったと考える。

縦道(現ライスライン)周辺は、住宅は増えているが、駅周辺ほどの増加ではなく、数軒が集まって小さな住宅地をつくり、それがあちこちに点在している。急激な増加がないために、田畑の急激な減少もなかった。縦道は街道や国道4号線などの大きな交通路と交わっているが、移動手段が限られてくるため、急激な増加に繋がらなかったと考えられる。

那須開拓は那須疏水に目が行きがちであるが、景観にも目を向けてみると、現代の建物が増えてきたが、開拓されていった当時の面影を現在でも感じることができるのではないか。

図1 昭和21(1946)年の空中写真

図2 昭和38(1963)年の空中写真

図3 昭和57(1982)年の空中写真