歴史遺産学科Department of Historic Heritage

山形県における明治前期の種痘普及の変遷について
土屋崚太
山形県出身
竹原万雄ゼミ

目 次 序章/第1章 明治政府の種痘普及について/第2章 山形県の種痘普及について/第3章 天童地区の種痘普及/終章

本研究では、明治前期の山形県において種痘がどのように普及したのかを明らかにする。種痘は、嘉永2(1849)年オランダ人のドクトル・モーニッケによって我が国に伝えられてから、幕府及び一部の諸藩でその実施を奨励したが、その技術の低位、従ってまた効果に対する疑惑等のため、未だ一般の信頼を得るに至らず、普及が妨げられていた。続いての図は種痘の経過について表している(図1 出典:これなあに?江戸時代の種痘より)。明治維新早々、政府は、明治3(1870)年大学東校に種痘館を設けるとともに、同年4月各府藩県に達して種痘の普及に乗り出した。越えて、明治7(1874)年には東京に牛痘種継所を設け、各府県に新鮮な痘苗を頒ち、種痘普及の基礎とするとともに、同年「種痘規則」を定めて、種痘医、種痘方法の従来の取扱いを整備し、新たに種痘実施数の報告、種痘済証の交付の規定を設け、こうして種痘の実施の態勢は漸次整えられた。

種痘に関する先行研究として、川村純一氏の『病いの克服―日本痘瘡史―』(思文閣 1999年)が挙げられる。川村氏は種痘方法の変遷や伝来など年代を追って整理している。また種痘方法の特徴をまとめ、日本への伝播状況を分析している。次に、この表は種痘普及に関する法令を示している。色別に分けており、黄色が明治政府によって出されたもので、赤色が山形県によって出されたものである(表1)。

明治政府が種痘に関する法令を定めたのちに広く普及しようとする動きが見えてきた。政府がまず道筋を示すことで、各府藩県に適切な指示を出し、医師との連携を図ろうとしたのだろう。「種痘規則」の整理が進むにつれて、種痘医免許の取扱いが厳重化したことが見える。政府は種痘医の免許制度を確立し、国民に対してより安全に接種しようと努めていたのだろう。

山形県では「種痘規則」の中で明治政府の布告を補い、術者すなわち種痘医の助けとする。政府の言いなりではなく県独自の動きが見える。県は政府の法令を倣いながらも独自性を出し、種痘普及へと道筋を示した。さらに「天然痘予防仮規則」では、独自の法令を出すことで種痘普及を図ろうとした。そこで種痘医だけでなく医務取締や区戸長の支えがあり、普及に繋がるという変遷を確認できた。

図1.種痘経過図

表1.種痘普及に関する法令