歴史遺産学科Department of Historic Heritage

[優秀賞]
佐倉藩飛地領下における社倉仕法の実情—出羽国村山郡村木沢村・上野村を事例に―
後藤彩佳
山形県出身
竹原万雄 ゼミ

目 次 序章/第1章 佐倉藩の社倉仕法について/第2章 村木沢村及び上野村の籾の積立の様子/第3章 積立量の変化及び社倉仕法の「改定」について/終章

 本研究の目的は、出羽国村山郡村木沢村・同上野村を対象とした佐倉藩飛地領下における社倉仕法の実情を明らかにすることである。社倉とは、籾などを積み立てて備える飢饉対策の手段のひとつを指す。調査対象地には「山形市村木沢文書」、「山形市蔵王上野文書」という文書群があり、先行研究では「山形市村木沢文書」の一部しか使用されてない。先行研究において「詳細な帳簿の検討」などは課題であるという記述があることから、本研究では先行研究で取り上げられていない史料にも目を向け、特に天保12(1841)年~慶応3(1867)年までの社倉仕法と、貯蓄のための積立に着目した。
 本研究を通して、佐倉藩飛地領下である村木沢村及び上野村では、「社倉仕法」(図1)すなわち社倉を運用していくために発布された制度に従いながら社倉内の籾の貯蓄量を増やし、有事の際には備えた籾を利用し、再度籾を備え直すという一連の動きが成立していたことが分かった。
 更に、村木沢村及び上野村の各年の籾の積立量が記載された史料(図2)を確認したことにより、特に村木沢村では合計値が嘉永6(1853)年に大幅に減少していたことに加え、安政4(1857)年以降は複数年連続して同じ数値が続くというような変化があったことも確認できた(図3)。 特徴的な動きがあった嘉永6(1853)年に注目すると、「大旱魃」が甚大な被害をもたらしていたという記述があり、上野村の史料でも「大旱魃」があったという記述が確認できたことから、多大な影響を与える出来事であったことが窺える。
 尚、嘉永6(1853)年の「大旱魃」に際した籾の拝借において、上野村では社倉内の備えが無くなるほどの籾の拝借を願う者がいたことにより、社倉の貯蓄が尽きることを危惧する記述が見られた。そこから、貯蓄の意味が無くなる可能性が問題点として指摘され、解決のために社倉仕法の「改定」が行われていたことが分かった。「改定」の内容は、安政4(1857)年以降は熟作を見届けた上での拝借を許可するというものである。ここから、安政4(1857)年以降の村木沢村の数値の変化の理由は明確ではないが、社倉仕法の「改定」が関連していたとも考えられる。このような社倉仕法の「改定」によって社倉内の貯蓄の管理の強化が行われたことが、本研究で見えてきた佐倉藩飛地領下の社倉仕法の実情における特筆すべき点なのではなかろうか。


竹原 万雄 准教授 評
 後藤さんは、1年生の頃から積極的に専門の力を育てていました。授業外でのくずし字の解読、現地の古文書調査、先輩にまざっての専門書の講読。最大の成果は、天童市立図書館から依頼をいただいた「市川家文書」376件の整理を毎週研究室に通って1人で行い、学科の紀要に掲載したことがあげられます。
 卒業論文は、自身で整理した山形市蔵王上野と村木沢の古文書を使い、江戸時代の社倉の実情にアプローチしました。飢饉などに備えるために籾を貯蓄することで知られる社倉ですが、毎年どれくらい貯蓄されるのでしょう?米を作らない人は何もしなくてよかったのでしょうか?いざ、飢饉になるとどのように使用していたのでしょう?このような疑問への解答を古文書から丹念に読み解きました。1年生から鍛え上げたくずし字の読解力と、丁寧な分析から明らかにした歴史像は、江戸時代の飢饉対策や社倉に関する研究を前進させることに成功しました。

図1 社倉仕法に関する史料の一部

図2 籾の積立量に関する史料の一部

図3 村木沢村の籾の積立量の変化