歴史遺産学科Department of Historic Heritage

明治10年代の米沢における貸座敷営業
小林彩華
山形県出身
竹原万雄 ゼミ

目 次  第1章 米沢における公娼制度の変遷/第2章 貸座敷東楼の経営/第3章 貸座敷東楼の娼妓

 明治時代の日本では、遊女は「娼妓」、遊郭は「貸座敷」と呼ばれており、法律に基づいて全国各所で営業を行っていた。こうした貸座敷は山形県にも存在し、本研究の対象地である米沢にも存在していた。米沢は現在の山形県南東部に位置し、米沢盆地を中心に市街地が開けている。米沢藩時代には藩公認の遊女はいなかったが、明治5(1872)年以降、全国的に貸座敷や娼妓に関する法律が整えられ始めた際に県公認で貸座敷と娼妓の営業が許可されるようになった。現在残っている貸座敷に関する史料は法令史料が中心であり、貸座敷営業者側の史料が見いだされることは少ない。しかし、米沢の貸座敷においては『稲田宗七文書』と呼ばれる史料群が残っている。本研究では、この『稲田宗七文書』と『山形県布達』を始めとする法令史料を主な研究史料とし、明治10年代の米沢における貸座敷営業の実態について明らかにすることを目的とする。  本研究では、『稲田宗七文書』と『山形県布達』等の法令史料を主な研究史料とし、適宜照らし合わせながら研究を行った。『稲田宗七文書』は、明治10年代に米沢で貸座敷を営業していた稲田宗七という人物に関係する史料である。明治12(1879)年から明治18(1885)年までの約70点の史料が確認されており、その多くは稲田宗七が営業した貸座敷・東楼やそこに在籍した娼妓に関連するものである。『山形県布達』は、明治時代の山形県における法令史料であり、今回は明治10年代の貸座敷や娼妓に関連した法令を抜き出して使用した。
 論文の第1章では、『山形県布達』を始めとする法令史料から貸座敷や娼妓に関係する規則等を抜き出して整理し、明治初期の米沢における公娼制度の変遷についてまとめた。2・3章では、貸座敷・東楼の経営や在籍していた娼妓について『稲田宗七文書』内の史料から明らかになったことについてまとめている。