歴史遺産学科Department of Historic Heritage

参詣図・供養絵額が何故西里地区に多いのか―河北町西里地区を事例に―
中野周
山形県出身
田口洋美 ゼミ

目 次 研究/研究目的/研究結果

 死者供養の絵馬はムカサリ絵馬だけだと思われがちだが他にも参詣図や供養絵額、来迎図等がある。今回研究対象にした河北町西里地区は河北町全体の絵馬奉納数199点中75点が奉納されている。上記から分かる通り西里地区は極端に奉納数が多いのである。私は西里地区だけ何故ここまで多いのか疑問に感じた為、本研究を実施する ことにしたのである
 参詣図・供養絵馬が何故西里地区に多いのか。それは慶応2年に起きた大火で河北町の中心部が焼失してしまったことが要因に挙げられる。約半数の家が燃えてしまい、その中に寺社仏閣が含まれていた。その為、参詣図・供養絵馬を奉納する場所が無くなってしまい、近くにある西里地区の 寺社仏閣に参詣図・供養絵馬が集まってきたのではないか。実際に西里地区で参詣図・供養絵馬が奉納され始めたのも明治2年と大火の後であることから奉納数が増えた要因の1つであると考えられる。
 西里地区だけ奉納数が多い理由は慶應の大火が起きた事や古くから 山岳信仰が根付いていた事などが関係していると考えられる。西里 地区では葉山信仰や白山信仰が残っており、葉山信仰では託宣、白山信仰ではシャーマンの女神と言われている菊理媛尊を信仰している。2つの共通点であるシャーマンは、ムカサリ絵馬を奉納する際に 必要不可欠なオナカマと名前を変え絵馬に関わっていた。この事か ら西里地区は死者供養の絵馬をスムーズに受け入れられたのではな いか。また、私は来迎図、参詣図→供養絵額→ムカサリ絵馬の順番 で死者供養の絵馬は移行していったのではないかと考えた。来迎図、参詣図に込められたあの世での安穏や幸せという願いが時代に適応するために形を変え、亡くなった人の未練を供養絵馬の中で叶えてあげることで幸せを願うという形に変わり、それがムカサリ絵馬に なったのではないか。私は本論で記した明治民法における家制度や 結婚への国民の意識を変えるために作られた文化という考えに至っ た現在西里地区ではムカサリ絵馬を含めた死者供養の絵馬は奉納されなくなった。だが私がこの調査をしたことで少しでも興味を持ってくれる人がいれば参詣図・供養絵馬に込められた、遺族の亡くなっ た人への祈りは忘れられることなく残ってくれるだろう。