DEPARTMENT OF FINE ARTS | OIL PAINTING|洋画コース
洋画コース
学生×教授対談 佐藤賀奈子(4年)×石井博康 教授
- 石井
- (2年まで洋画コースで学んで)3年生から版画を専攻したよね。版画を選択したきっかけは?
- 佐藤
- 2年生の時の授業です。高浜先生が講師でいらした時に、ペンで描いた自分の作品を見ていただいた時、「銅版画に行った方がいいんじゃない?」と助言をいただきました。はじめは木版画だったのですが、銅版画に変えたらすごく面白くて。ちょうど油絵の方も自分で何がしたいのかがわからなくなっていた時で、銅版画を試してみようと思いました。そしたらすごく自分に合っていたんです。銅版画は線がすごくきれいに写るんです。油絵だと細かい作業ができないと勝手に思い込んでいたのですが、銅版画はすごく細かく描きたいもの描けて、やりたいことが銅版画に直結しました。
- 石井
- 版画の場合、油絵を描くような画面に直接ペインティングするダイレクトな行為ではなくて、その前に技術の問題や薬品の工程もいろいろあるじゃない?技術の習得におけるハードルや壁は無かったの?
- 佐藤
- むしろ面白く感じました。
- 石井
- それならいいね。今、技法で苦労していることは無い?
- 佐藤
- 黒を作るのが銅版画は重要なんです。白黒の世界なので、一回真っ黒を作ってから削ったり、薄いグレーを何回も重ねたり。そういうのが未だに上手くいかなくて、失敗したり直したりを繰り返してます。
- 石井
- 版画の黒って深くて、その色だけでイメージが膨らんでいくからね。今、版画の技術面の問題を聞いたけれど、でも本当は、今一番大事なのは一体自分は何を描くべきかということ。4年間勉強してきた一つの集大成として、それぞれが各自のテーマを問われる時なんだよ。そしてテーマを問われるというのは、自分自身をどう形にするかっていうことかもしれないな。
- 佐藤
- 私が制作している時は暗いんですよね。過去に失敗したこととかを思い出したり、やっちゃいけないようなことをしたとか、そういう自分の暗い部分を考えてしまって結構苦しい。
- 石井
- マラルメっていう19世紀の詩人がこういう詩を作っているの。「わが船の帆の素白なる悩み」って。まだ出航したことのない船が、この大海原、見渡す限り360度の海に、私の船はいったいどこに行くべきか。要するに私はいったい何を書くべきなんだろうって言っている。マラルメっていう大詩人ですら悩んでいるんだよ。これは、実は詩人だけの話ではなくて、芸術をやる人、絵を描く人はみんなこの悩みに直面している。その悩みが卒業制作で逃げることも、後に引くこともできないところにみんな来て、問われている。何かを、あるいは自分をはっきりと形のあるものとして見せなくてはいけない。しかし美術っていうのは答えがないからね。たとえば佐藤さんは何を頼りに制作をしているの?
- 佐藤
- 版に向かう時は、何を描こうと思わなくても手が自然に動いちゃうっていうのがまず最初にあります。

- 石井
- いいこというね。やっぱり制作っていうのは「頭」ではできないんだよ。まずね、手。アンリ・フォーションて人はこう言っている。「すべての芸術は手が切り開く」って。自分がどんな世界が見たくて、それをどうやって見るかっていうと結局作品。作品は予定調和で作れるものじゃない。いや、作れるんだけどつまらないものしかできない。だから自分のやっていることをこれじゃだめだと壊してまた先に進むの繰り返し。否定したところでみえる世界というのは自分では見たことないものが出てくることがある。これが先にひとつ進んだっていうことなんじゃないかな。それまで否定してきた総合が「作品」という自分の見たいものとして現れる。だから作品を作るのは苦しいことだよね。卒業制作も締め切りまであと一ヶ月あまりだけど、今の自分をどんな風に感じる?
- 佐藤
- 4年間の集大成が卒展だけど、ここで終わりじゃなくてずっと続けて行きたいと最近思うようになりました。大きな通過点みたいな気持ちですね。
- 石井
- 卒業制作を自分ではどんなふうに捉えてる?(芸工大の卒業制作はでかい壁を与えられるからね。)大きな壁が立ちはだかっているようなイメージとかある?
- 佐藤
- それはありますね。
- 石井
- 卒展のカフェ@ラボでは、相当鋭い論客評論家が来て、我々教員の目じゃなくて外の美術界の目でみんなの作品を切り込んでもらおうと思っている。そこでいよいよ自分の作品がさらされるわけじゃない。緊張する?
- 佐藤
- 怖いです。
- 石井
- でも作品は、結局、発表してその意義があるんだと思うよ。発表する緊張感、あるいは発表する責任感、発表する怖さ。これってある意味贅沢な瞬間かもしれないんだよ。形になって現れた「私」を人が見るんだよ。その時、いいなあ!なんて言われたらまさに「私」そのものを人がほめてくれたようなものだからさ。ドラマチックな瞬間だと思う。本当の喜びや幸せを感じるのは、ある「キツさ」を経ないと多分味わえないんじゃないかな。4年間の最後の機会でそういう素晴らしい「キツさ」に出会って欲しいとぼくは思う。
残りの一ヶ月を切って、佐藤さんの素直な気持ちは?
- 佐藤
- 作品が思うようにいかなくて、いっぱいやり直して、それでも4年間ずっと制作し続けてきた自信みたいなものも少しあります。卒展に向けて自分を信じてやるしかないという感じです。
- 石井
- 今のコメント本当によくわかる。あと残りの一ヶ月はそれまでの何か月分かに相当するよ。まだまだすごいドラマがいっぱい残っている。それは緊張感の中でしか味わえないドラマだから、最後にその体験を是非とも自分の人生のお土産にこれからの将来の財産になるように頑張ってほしいと思います。
- ――
- 4年生の卒展に対する意気込みを、今年はどういうふうに感じますか?
- 石井
- 今年の4年生は進度が遅い。猛烈なプレッシャーを感じなきゃいけない時なのに、なんかまだふらふらしている。ただ、いろんなタイプの人がいるから、本当にぎりぎりのところにならないと普段の自分を超えるようなエネルギーが出ないだろうけどね。
- 彼らは今、後ろに一歩も引けない崖っぷちにいるんだよ。それは人がものすごく変わっていく一つのきっかけ、シチュエーションでもある。作品の成長は、すなわち人格の成長。我々は、作品によって鍛えられていくんだよ。作品によって思考力とか知恵というのがついてくる。さっき言ったドラマがこれからまだまだあるよ。それをどれだけ味わえるか、真剣にやった人ほどわかる。
- 自分の作品を否定しなきゃいけない。だめなものは投げ捨てて、打ち消しながら進んでいくことで自分の見たいものに近づいた人は、どんどん変わっていく。結構これって感動的なんだよ。本当に今までボケ−ッとしてたやつが、夜中の2時くらいに、僕が大学から自分の宿舎とかに帰る時、アトリエをのぞくと、自分の作品の前にじーっとさ。雪が降る中いいロケーションだよ。音楽が欲しいくらい。自分の作品の前でたたずんで、見入ってじっと動かない。そうかと思うと、本当に床にへばりついて、必死にやっているやつもいる。あの光景見ると、こんなの親が見たら感動するだろうなと思うよ。
- あんな1月の寒い時に孤独になって。作品制作を孤独にどこまで付き合うか、耐えて戦うか。僕は卒業していく学生が将来、美術に携わらなかったとしても、美大に行ったことはみんな決して後悔しないと思う。なぜかっていうと、普通の大学だと、講義を聴いて試験を受けるという、ある意味受身だよね。ところが、制作っていうのは、常に自分の作品と向き合い、もう一人の理想の自分と対峙するんだよ。そうすることで哲学が身についていく。自分はどういうふうに生きるべきかとか、自分の生きる価値観てなんだろう、お金か、そんなものじゃない、心の充実を何よりも自分は愛するんだとか。これは生活者の強さとなっていくんだよ。だから仮に将来制作に携わらなくたって、美大で真剣に自分の作品と向き合ったっていうこと絶対に後悔しないと思う。
- 佐藤
- たしかに去年の先輩の姿と比べてちょっと出遅れたって感じはあります。でもちゃんと前に進んでいるとも思います。苦しんでいて辛いけれどそれを投げ出したらもう終わりだから、みんな必死でやっている。度合いはそれぞれ違うけど、卒展までその必死さを持ち続けていけるように頑張りたい。
- ――
- 作品で伝えたいことについて。
- 佐藤
- 私は自分が伝えたいことが100%伝わらなくてもいいと思っています。自分でも何を描こうと思って描いたりしているわけじゃない。でも作っている最中に頭のどっかにあるものが不思議と作品ににじみ出てくる。だから、何かが伝わればいいなっていう、見た人が具体的なことは感じなくても絵を見て足を止めてくれるとか、何かを感じてくれたらいいなと思っています。
- 石井
- そうだね。作品というのはなかなか言葉にできないものなんだよ。陳腐な説明はいらない。そんなのを超えたインパクトや自分の共感できるものを感じることなんだよね。だから絵を描いているんだよね。
- ――
- 学内のアトリエで展示することについて。
- 佐藤
- アトリエは普段みんなが制作している場所だから、床が絵の具で汚れていたりとか、ちょっと油絵のにおいがしたりする。そういうところで自分達の作品を展示する。この作品はいいとか、悪いとか、そういうことだけではなくて、若い私たちが、自分を探すためにこういうところで作品を作っているっていうことを感じてもらいたいです。

- 石井
- 芸工の卒業制作は、学生一人ひとりが何らかの想いを持ってやっている。だから卒展見た人たちがね、エーッこんなものを人間って作るんだ、こんなことを考えるんだとかね、何だろうこれ変だとか。こんなものが世の中にあるんだとか、そういう驚きをもって見てくれるといいね。みんな、日常の中で、納得できるもの、理解できるもの、あるいは目的功利に沿って大体一般的に動いている。風貌はけったいな格好したりしているかもしれないけれど、その人たちが、まじめにこんなことも考えるんだとか、こんなことってあるんだよということを示すことは、ものすごい意味あるよね。
- 人間って目的功利だけで生きてはいけない。いろんな形で、功利的なものとはまったく違う価値観というものが世の中には存在するんだということ。美術館はテーマパークとは違って、「こんなものもあるんだという驚きの楽しさ、美術館ていうのは知の探検の場だ。」と言った人がいる。ファインアートというのは、作品を見た人が、人間にはいろんな考え方があるってことを感じさせるのが重要なんだと思う。
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