歴史遺産学科Department of Historic Heritage

加瀬広武|江戸幕府と大名の関係〜秋田氏を事例として〜
宮城県出身
岡陽一郎ゼミ

 豊臣・徳川政権時代において、各大名らは「取次」という連絡役を介し、中央政権と繋がりを持った。今回この取次を研究するに際し、近世大名秋田氏を対象とした。同氏に関する先行研究は、歴史や系譜の研究があるものの、取次との関わりを研究した事例は存在しない。本研究では、秋田氏を事例とした、取次と大名との関係性や、取次たちがいかなる業務を行なったのか、そして、彼らが豊臣・徳川政権と各大名らをどのように繋ぎ合わせていたか明らかにする。

秋田氏に関する中世以前の資料は殆ど残っていない。また同氏は、元々秋田姓ではなく安藤姓を名乗っていたが、8代目当主愛季の代に姓を安藤から秋田に改めた。愛季の死後に起きた湊合戦では、愛季の子実季が勝利し家督を相続した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に加担した。しかし、秋田軍は敵方である上杉軍と戦わなかった。それを日和見と指摘され、常陸国宍戸(現在の茨城県笠間市)に転封された。その後、実季は家督を子の俊季に譲るも、政治方針の違いなどで対立し、寛永6年(1629年)伊勢国の朝熊山(現在の三重県伊勢市と鳥羽市の間)に配流された。また、正保元年(1645年)に、宍戸より三春(現在の福島県田村郡三春町)へ再び転封された。

秋田氏は、豊臣政権時代、石田三成・前田利家・浅野長政ら豊臣家重臣を取次とし、秀吉と関係を構築するべく連絡を取っていた。また、徳川政権下では譜代大名である榊原康政や、旗本の嶋田利正らに取次を依頼し連絡を取っていた。関ヶ原の戦いでは康政が取次を、実季と俊季が対立した騒動では、利正が取次を担った。これを踏まえて当職は、当人の能力も優秀且つ組織内で重要な職務に就き、秀吉や将軍から信頼を得た者たちが任命される職務であったとわかる。また、その信頼を背後に、組織内で強い権力を振るっていた。 今回の調査では、『秋田家文書』の中で取次が登場する古文書が15通あり、それらを解読することで、以下3点を明らかにした。1つ目は、双方の関係性を強固にするべく贈り物をやり取りしていた点。2つ目に、実季が朝熊に配流された際に反発的であったのは、幕府や俊季らに対する不満が原因である点。3つ目は、取次が単なる大名と幕府を繋ぐ連絡役という側面のみならず、その立場を利用し、大名家の内訌に干渉できる程の、強い権力を持っていた点である。

1. 秋田氏系図

2. 『秋田家文書』

3. 秋田氏と幕府の関わり方(相関図)