歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類

フィールドで本物に触れ発見する、人類と地域の未来

先人の豊かな知恵や技に学び、自分が生きていく未来に想いを馳せる。歴史遺産学科では、身近な歴史や民俗に触れながら、地域の歩みと未来の姿を追い求めていきます。1年次から始まるフィールドワークでは、近隣地域から東北各地まで足を運び、文化の独自性と地域で生きる豊かさを見出します。狩猟文化や生業技術、考古学、城郭史、民族文化など、幅広い専門分野を持つ教授陣と過ごす、驚きと感動と発見に満ちた日々。「東北学」の実践を通して得るコミュニケーション能力や本質を見る力、調査成果を冊子にまとめる力は、社会で大いに役立つでしょう。


遺産と関わり、価値を見出し活かす術を学ぶ

歴史学
過去の人々の暮らしや精神を史料から探り、自らの歴史像を組み立て、現代の生き方を考える。史料に描かれた山城などを歩く体験や、古文書や古地図などの史料を読み解くことで、歴史の新たな側面や物語を紡いでいきます。

考古学
発掘現場や考古資料に触れるフィールドワークから、調査分析の技術を実践的に習得。土器や石器を作り、使う実験考古学の取り組みも特徴。夏期に行う古墳や縄文遺跡の発掘調査合宿も魅力です。

民俗学・人類学
民具や生業技術の「もの」「わざ」と、祭りや信仰の「こころ」から、東北の「人」を探求。民俗行事への参加や集落調査など、住民の生活に寄り添いながら、地域で生きる意義や文化継承の問題を考えます。

歴史遺産マネジメント
地域の歴史遺産を総合的に把握し、学問分野の枠を超えて個性的な価値やストーリーを見出します。さらに歴史遺産を活かした地域づくりを視野においた保存・活用策を考えます。

歴産の若き仲間へー学科長コラム
北野教授が年2回、考古学研究室通信誌「かまどうま」(2003年創刊)に書いている巻頭言です。学生や卒業生たちにむけてのメッセージが述べられています。歴産の若き仲間へー学科長コラム

4年間のカリキュラム
  • 1

    フィールドで3分野の基礎を横断的に学ぶ/人と自然との関わりで生まれる地域固有の文化や伝統を理解するため、はじめに座学で全体の基礎知識を習得。さらにフィールドに出かけ自然を観察し、遺跡や民俗資料などが存在する現場を体験。フィールドワークの基礎手法を身に付ける。

    【必修科目(1年次)】芸術鑑賞の喜び/芸術文化と自然の遺産/歴史遺産調査演習A/歴史遺産学総論/歴史遺産基礎演習1・2/フィールドワーク演習1
    【選択科目(1~4年次)】デッサン初級/東北学A・B・C/世界遺産総論/考古学概論/地誌/日本史概論/東洋史概論/西洋史概論/地理概論/アジア文化論/社会文化環境論/民俗・人類学概論/社会学

  • 1~4
    東北学A〜C
    歴史、考古、民俗の教員が講義。民俗は、羽越国境と信越国境地域の事例を取り挙げ、東北に顕著に見られるマタギ文化を考える。(選択)
  • 1
    歴史遺産調査演習A
    入学後初のフィールドへ出向く演習で、1泊2日の小旅行。地域の歴史遺産や自然に関する調査から、その実情に触れる。(必修)
  • 1
    歴史遺産学総論
    考古、歴史、民俗の各視点から日本の歴史や文化を見直す。歴史遺産を継承する意義を理解し、地域が抱える問題の背景を学ぶ。(必修)
  • 1
    歴史遺産基礎演習1・2
    考古、歴史、民俗分野の各研究手法の基本を学び、野外調査に向けた地形図の見方、古文書史料の読解などに取組む。(必修)
  • 1
    フィールドワーク演習1
    文献などによる事前学習の上でフィールド調査をし、内容をまとめ、成果を発表してレポートを作成する一連を体験。(必修)
  • 1~4
    世界遺産総論
    世界遺産や自然遺産から「世界遺産とは何か」を学ぶ。世界遺産登録と地域の人々の関係を確認し、世界遺産の意味を考える。(選択)
  • 2

    歴史、考古、民俗・人類の研究に触れる/3分野の中から2つを選択し、主体的に地域に入り、合宿形式で聞き書き調査を実施するなど実践的なフィールドワークの方法を習得。古文書の目録作成や発掘調査、記録方法、民俗誌の読解など、各分野の研究の基礎を身につける。

    【必修科目(2年次)】現代社会解剖学1/フィールドワーク演習2
    【選択必修科目(2年次)】考古学応用演習1・2/歴史学応用演習1・2/民俗・人類学応用演習1・2/考古学資料論/歴史学資料論/民俗・人類学資料論
    【選択科目(2~4年次)】民俗・人類学特講A・B/考古学特講A・B/生業技術論/歴史学特講A・B/インターンシップ

  • 2
    考古学応用演習2
    遺跡の出土品を分析し、実測図や文章で記録する能力を養う。顕微鏡や分光測色計などの機器による調査法も習得。(選択必修)
  • 2
    民俗・人類学応用演習1・2
    文献を読込み、調査研究の手法を習得。またグループに分かれ、課題を聞き書きなどで調査をし、成果を発表。(選択必修)
  • 3

    専門分野を一つ選択し、自ら調査研究/調査の立案、調査、資料や調査報告書制作を自主的に実施。教授の専門でゼミに分かれ、読解力や文章表現力、プレゼンテーション力を高める。また、研究センターとの連携プロジェクトで学びの社会的な意味を理解し、卒業後の進路にも活かす。

    【必修科目(3年次)】現代社会解剖学2/フィールドワーク演習3/歴史遺産文献講読1・2/歴史遺産調査演習B

  • 3
    フィールドワーク演習3
    民俗学専攻では山形県小国町でマタギと狩猟採集活動を体験し、農山村での生活参加型の調査方法を具体的に習得(必修)
  • 3
    歴史遺産調査演習B
    国内外の研修旅行から、多様な自然や文化の中で育まれた歴史遺産の実態を調査し、卒業研究に向けた問題意識を養う。(必修)
  • 4

    自らフィールドを決め、研究を深める/地域に1年間入り込んで調査を行うなど、専門分野を軸に多角的な視点で問題を見る力、地域を総合的に理解する力を育成。また、研究センターとの連携プロジェクトのリーダーとしてチームを引率。チームを統率する力も身につける。

    【必修科目(4年次)】歴史遺産研究/卒業研究

  • 4
    歴史遺産研究
    教員の専門ゼミに分かれ、学生が自らテーマを設定し、研究スケジュールを立て、卒業研究に向けて資料収集や調査を行う。(必修)
  • 4
    卒業研究(歴史遺産)
    集大成の卒業論文。研究テーマに沿った資料収集と分析から結論を導く。方法論の明快さと矛盾のない論理の展開が必要。(必修)

活動レポート

  • 盛んなフィールドワーク

    長い歴史の営みが残した断片から、現代が必要とする「美や価値」を発見するのが歴史遺産学科の学びです。人を幸せにするそんな宝物を求めて私たちはフィールドに出ます。集落景観の調査や住民への聞き書き、地域の人に大切に保存されてきた古文書の目録づくりと読み書きなどを体験します。毎年冬には山形県小国町のマタギの村で、地域の方とウサギ狩りにも参加します。

  • 県立博物館と山形県内初の連携

    山形県立博物館と歴史遺産学科が連携。企画展の展示準備や案内にボランティアで参加するほか、卒業研究等への館蔵資料の活用や学芸員による指導などの取組みを展開しています。

  • 土器をつくる

    文化財保存修復研究センター5年間の研究プロジェクトの成果を展示。文化遺産の保存修復を通じて再発見した山形の文化が物語として感じられる、魅力的な展示に。

  • 少人数ゼミ制

    歴史遺産学科のゼミは少人数制。フィールドワークで得た資料を教員とゼミ生がともにじっくりと整理し研究する環境をつくるため、少人数制にしています。

  • チュートリアルの活動

    本学科の特徴である、課外で教員と共に学ぶ活動。黒曜石での石器作り、古文書等の資料保存活動、石碑や石造物を踏査してブックレットにまとめる活動などがあります。生の資料を扱いながら社会貢献もできます。

  • 国内最大規模の可能性も縄文期「日向洞窟」発掘調査

    長井謙治講師と学生とで調査団を組織し、「国指定史跡日向洞窟」周辺部の発掘調査を実施。国内でも最大規模の可能性があり、より広域的な調査や科学的な検証を進めています。

  • 高畠石の歴史からひもとく人、自然、社会のつながり

    2011年に採掘が止まった高畠石。町並みの価値を見直そうと、北野博司教授が『高畠まちあるき』を主宰。学生などが聞き書き調査を実施し、成果を冊子にまとめました。

  • 学生が執筆。地域民俗誌「東北1万年のフィールドワーク」の制作

    住民と触れ合い、学び伝統文化や生活習慣などを研究成果として、学生が執筆を担当して冊子を発行。自らの調査内容が冊子になり、地域の人に読んでもらうことは大きな喜び。

  • 地域のお祭りに参加

    フィールドワークには、調査だけでなく、地域に長く伝わる伝統的な風習を体験することも含まれます。祭りの社会的意義を学び、さらに続く未来まで考えられる貴重な機会です。

  • 山焼き体験

    山形を囲う雄大な山での、ダイナミックな山焼き体験。大自然が身近にあることが、現代まで続く文化を知る大切な機会に。同時に大学が山形にある意味も知ります。

  • 本寺 絵図の研究

    岩手県本寺地区は、中世に描かれた「陸奥国骨寺村絵図」の場所として知られており、絵図の景観を現在でも良好なかたちで留めています。その絵図から当時の歴史景観を探ります。


作品紹介

  • 両墓制の現在 -山形県米沢市中関を事例に(抜粋)

    日塔真由子「両墓制の現在 -山形県米沢市中関を事例に(抜粋)」

     

    はじめに
    私が両墓制を初めて知ったのは、大学1年次に履修した授業の中でだった。両墓制について詳しく調べていくと、その分布は日本全土に広がっており、様々な事例が挙げられていることが分かった。しかしその反面、両墓制自体の定義の曖昧さなど、様々な問題点が浮き彫りになったままの状態で研究が進められている状況を知った。
    一方、両墓制研究の対象である土葬は時代の変化とともに火葬に移り変わっていったこともしばしば目にする。現在では火葬の他にも自然葬や自由葬など様々な葬送方法が注目されてきている。
    そのような変化の中、土葬を基本とする両墓制は地域の中でどのように変化し現在に至っているのか。本研究では、文献資料で遡れる昭和46年頃から今現在に至るまでの山形県米沢市中関における両墓制の変遷を検討する。土葬から火葬に移り変わる中でどのような変化が見られ、現在はどのような状態で地域に存在しているのか、両墓制の現在を知ることを本研究の目的とする。

     

    1. 先行研究
    一般的に日本の土葬墓制では、死体を埋葬したその場 所に死者供養のための石塔を建てる。しかしそれに対して、死体を埋葬する墓地と、その死者のための石塔を建てる墓地とをまったく別々に離れて設けているような例がある。そのような事例を、一人の死者に対して墓が2つあることから両墓制と呼び、一般的な事例を単墓制と呼んで両者を区別している(新谷 1991:1)。
    両墓制という呼称は『山村生活調査第二回報告書』の中の「両墓制の資料」において大間知篤三が初めて使用した。この結果、両墓制という用語が成立・定着し重要な民俗ということで多くの調査結果が報告されることとなった(福田2004)。
    上記のような両墓制研究の中、山形県の両墓制については各市史や報告書で事例が紹介されている。米沢市の事例については『米沢市史 民俗編』などで報告が確認できた。

     

    2. 中関における両墓制の現在
    実地調査を通して、中関では現在も両墓制を行っていることがわかった。それは遺体を直接土に埋めているということではなく、遺体を火葬し遺骨の状態にして 埋葬墓に埋めるというもので、つまり土葬を行っていたころ埋葬墓に埋めていた遺体が、火葬後の遺骨になったということである。石塔墓には何も埋めないということだった。埋葬方法に関しては、中関の住民によると「一番大きく変化したのは、ウメバカに埋めるのが遺骨になったということである」という。また遺骨の埋葬方法については「遺骨の埋め方は、骨壺をとり袋に入っている遺骨を木箱に入れ土に埋める」ということである。
    山形県米沢市中関の両墓制についての文献調査は、主に和田氏の「米沢市中関集落に見る両墓制」(1971)と米沢市史編さん委員会編の『米沢市史 民俗 編』(1990)の記録によるものである。また、中関では1979(昭和54)年以降土葬から火葬に変わっており、したがって「米沢市中関集落に見る両墓制」が発行された年は中関ではまだ土葬を行っていたことを筆者の実地調査で明らかにした。
    埋葬方法が土葬から火葬に変わって中関の両墓制はどのようになったのか。上記の文献資料と筆者の実地調査を比較した結果、火葬になっても大きな変化はあまりみられないことがうかがえた。

     

    3. 両墓制の多様性
    最上氏によると、埋める所と別に詣る所を設けるという仕組みができたのは、けがらわしい遺骸を葬った場所を忌みさけ、清らかな所を祭りの場所として選んだものと考えられるという(最上1980)。つまり、埋葬墓はけがれた死体を埋め忌みさける場所という意味を持っており、それに反し石塔墓は死者を祭る清ら かな場所であるということが考えられる。堀氏によれば、そのような両墓制に火葬が取り入れられると、両墓制の火葬遺骨は石塔墓の方へ納められ、いわゆる単墓化しつつあるという(堀1951)。
    つまり土葬である両墓制に火葬が取り入れられると、火葬後の遺骨は石塔墓に納められ、埋葬墓を作る必要性がなくなり単墓化してしまうということだ。しかし中関における両墓制の場合、土葬から火葬に変化しても単墓制になっておらず上記のようなことは当てはまらない。
    筆者の実地調査によると、中関の近くには大樽川という川が流れており、その川は暴れ川で昔はよく氾濫していたという。その頃は中関の墓は大樽川の近くにあったらしく、川が氾濫するたびに墓が流されてしまっていた。それでもなんとか先祖を供養できないか、というところから始まったのが中関における両墓制の始まりではないかということだ。しかし中関にはそういったことが記されている文献などは残っておらず、真相はわからないという。
    つまり中関における両墓制の場合、最初から死穢の忌避が目的で両墓制が成り立ったというわけではないかもしれないということが考えられる。こういったことから、両墓制は その成立要因として土地の地形や自然災害などの自然現象の影響を受け成立する場合も大いに考えられ、地域やそこに住む人々によって様々な形態が考えられるのではないだろうか。

     

    おわりに
    両墓制研究は今、研究者によっては既に終わったものだという見解もある。しかしながら中関の両墓 制は、火葬を取り入れ現在も地域に根付いている。この中関における事例は、両墓制の様々な可能性の一つであると筆者は考える。今後このような両墓制がどのように変化していくのか大いに注目しなければならないと考えている。

     

    原文から抜粋

     

  • 東国にみる民衆の戦い -『奥羽永慶軍記』を素材として-(抜粋)

    前田美咲「東国にみる民衆の戦い -『奥羽永慶軍記』を素材として-(抜粋)」

     

    研究概要
    藤木久志『雑兵たちの戦場 -中世の傭兵と奴隷狩り-』では、戦国の戦場で乱取りと呼ばれる掠奪行為が雑兵たちの手で行われていると述べた。また戦場の村に目を向け、乱妨狼藉に曝された民衆のたくましく生き抜く試みについて論じた。いざという時、領主や大名の城は民衆の避難所に替るとし、民衆たちの多彩な自力の風習を示した。更に藤木久志『城と隠物の戦国誌』では、民衆が城に避難する「あがり城」についても、兵の動員要請という一例もあると示した。
    本研究では、東国の民衆がどのように合戦と関わっていたのかを明らかにする。これまで民衆研究の史料としてあまり注目されなかった『奥羽永慶軍記』から事例を拾い上げ、更に鮮明な「東国の民衆像」を描きだせるよう努めた。

     

    『奥羽永慶軍記』について
    戸部正直によって編纂された、戦国時代の東北地方を中心とした軍記物語である。天文元年(1532)~元和九年(1623)までを書く。

     

    1. 乱取り
    研究の結果、東国でも乱取り(人・物の掠奪)が行われていたと分かった。民衆は合戦の度に掠奪や暴力・苅田の脅威に曝されていた。しかし、同時に乱取りに参加している例も確認された。特に合戦後の落人狩りに民衆の登場が多い。
    更に東国では、雑兵たちが攫った子供を養子にする、という事例も確認された。

     

    2. 民衆の合戦
    これまで、民衆の戦闘員としての合戦への参加は否定されていた。しかし民衆は集団で合戦に参加していることが確認された。更に領主による徴兵ではなく、自主的に参加している可能性が高い。民衆はどの領主に付くか、自ら選択し加勢していたようである。
    民衆の集団は大勢であることが多い。そのため民衆の加勢が合戦の勝敗に大きな影響を与える。
    また民衆の合戦への参加は基本的に自由で、近辺の民衆すべてが合戦に参加することも逃げることもあり、民衆の意思に委ねられていた。

     

    3. 東国の民衆
    「東夷の愚なる心を能察して、賞を重く、罰を軽く、慈悲を深くせられしに」とあるように、東国を統治する武将は民衆に寛大な対応を取っていた。一例に伊達政宗の一揆への対応が挙げられる。伊達政宗は一揆勢を制圧した後、主犯数名以外をすべて許している。しかし上方武将たちは一揆勢を皆殺しにし、圧政を行った。このような上方武将たちは民衆の信頼を得られず没落した。また、関白秀吉が東国に武将を派遣した時にも、民衆は懐いた旧主に従い一揆が多発した。
    つまり東国は民衆の自立心や影響力が強かったと考えられる。

     

    4. 籠城
    民衆は合戦の際、武士と共に 籠城していることが確認された。また民衆は戦闘員として戦いに参加している。藤木(2009)では、民衆の籠城を「敵の濫妨狼藉を逃れての避難」としている。更に民衆の戦闘員化については特殊な事例とし、松山城・忍城の例を挙げている。つまり本研究で確認された戦闘員としての民衆は全国的に珍しいと言える。これは東国という地域の特徴であると考えられる。
    また、郭に民衆を住まわせ、敵の襲撃に備えるという事例も確認された。この郭のシステムは、①敵の襲撃を察知すると、女性が太鼓や注進を以て、武士に伝える②男は弓・鉄砲・長柄を持ち駆け付け、敵を防ぐ③その間に、武士は武具を固め、馬に乗り、決められた持口を固める、というものである。このような郭は、藤木(2009)で古代中国の城郭都市の例を挙げ、領主の「城」と民衆を保護する「郭」の二重構造を紹介している。日本の城郭でも領土争いの激しい境目の地域では、郭に民衆が住み防衛を行っていることが確認された。

     

    5. 戦場の女性たち
    女性や子供たちは掠奪の対象になり易い。しかし戦闘員としての役割もあると分かった。特に籠城戦で女性の活躍が多くみられる。『奥羽永慶軍記』で確認された女性の役割は、①石を落して、堀への侵入を防ぐ②弓・鉄砲を打ち懸ける③棒や竹竿をもって、武者の後ろに並び、大勢に見せかける④疲れた兵士に水を出す、というものである。また、籠城戦での女性の避難場所は本丸の可能性が高い。

     

    6. 結論
    東国の民衆は合戦に積極的に参加している。集団で合戦に加勢することもあれば、女性たちが籠城戦に参加することもある。「被害者で第三者」という今までの民衆像は、東国において当てはまらないと確認できた。また、民衆と武士という境が曖昧であると感じた。
    更に、郭の存在や民衆の自立心など東国の特徴と思われる事例も確認された。

     

    7. 参考文献
    戸部一憨斎正直『奥羽永慶軍記』校注 今村義孝 無明舎出版 2005年
    藤木久志『雑兵たちの戦場』 朝日新聞社 2007年
    藤木久志『城と隠物の戦国誌』朝日新聞出版社 2009年
    笹間良彦『図説 日本戦陣作法事典』柏書房 2000年 等

     

    原文から抜粋

     

  • 中山間地における多機能用水の利用史 -山形県西置賜郡小国町五味沢集落を例に-(抜粋)

    松田和之「中山間地における多機能用水の利用史 -山形県西置賜郡小国町五味沢集落を例に-(抜粋)」

     

    1. 研究目的
    本研究では、中山間地である五味沢集落の水・水路に関する生業並びに生活利用に関する事例を研究対象にし、近代から現代にかけての五味沢集落での用水のサスティナブルな利用史を明らかにする。そして年代を経て利用が変容をしていくプロセスを導き出し、どのようにして変容をしていったかを明らかにする。

     

    2. 五味沢集落と水
    五味沢集落は、豊富な水に恵まれた集落である。荒川、5つの沢が集落へと流れている。5つの沢は、五味沢沢、三明沢、沢ノリ沢、ジンタケ沢、石渡沢である。この5つの沢があることによって五味沢集落が大きく開けたと言っても過言ではない。豊富に水があったことにより多くの戸数を抱え、村を開くことが出来たと考えられる。
    飲料水の変遷では、昭和20年代まで水路・沢を利用してきた。各家には、ミジャヤフネと呼ばれるシンクを作り、水を取水していた。本家筋の家は、特定の沢を利用し、その他の家は、水路から取水をしていた。その後昭和30年代に井戸が普及し始めた。昭和40年代になると、基盤整 備・消火栓設置に伴い簡易水道化した。

     

    3. 利水と水路
    五味沢集落では、木材運搬をするため河川・水路を使っていた。木材運搬 は、木地の木材と薪であった。木地は、上杉氏の奨励があり、江戸時代から始まった。昭和10年代までお椀の製作から塗りまで一貫し生産をしていた。伐採地は、針生平から角楢小屋付近であった。伐採地から沢を使い流し、水路を通して集落へ運ばれた後、各家庭で荒型作りをした。荒型が作り終わると水力式の轆轤で削られた。その後昭和30年代に電力式の轆轤に変わっていった。ちょうどそのころから木地椀の使用の減少並びに用材を集めることが困難化した。木地は、 昭和30年代に終焉を迎えた。
    薪の運搬をする際は、組という共同組織で行われ、伐採は、すべての組で行った。組組織は、斎藤家・佐藤家・舟山家3軒が混ざりあった組分けがなされた。これら組は、薪流しだけではなく、ドウ場・冠婚葬祭などもこの組で行われた。薪の伐採地は、徳網集落奥の場所であった。伐採の後、11月まで棚積みして保管した。10月下旬になると薪流しの準備を行い、11月下旬に薪を集落まで流した。薪は、昭和30年代まで水運で集落まで運ばれ、その後トラックでの陸上運送へ変わっていった。薪の使用では、昭和45年度から囲炉裏から薪ストーブへ変わり始めた。昭和50年代にかけて 燃料革命がおこり、薪から石油へと変わっていった。現在では、数軒のみが薪と石油ストーブを併用して使っているのみだ。

     

    4. 田んぼと水路
    五味沢集落は、44haの田んぼが広がっている。五味沢集落の基盤整備は、昭和47年から3年間で行われた。基盤整備以前は、個人の田んぼへは、個人の水路のみを使い畝越しに配水していた。基盤整備によって、規格化された田んぼへと変わり、灌漑用水である水路も三面コンクリートで舗装された。そして、田んぼへの取水は、1つの田んぼに1つの取水口が取りつけられていった。田んぼの技術では、昭和20年代まで水苗代を作り、水を豊富に使用していた。昭和20年代以降、保温折衷苗代が作られるようになった。保温折衷苗代が入った頃から、テーラーなどの農機具が導入されてきた。昭和60年代になると、パレット式 保温折衷苗代へと移行し、乗用式田植え機に対応した苗代作りへと変容をしていった。

     

    5. 生活と水路
    五味沢集落では、沢水や水路から水を取水し、生活用水として使用をしてきた。取水した水は、トヨと呼ばれる樋をつたい、ミジャヤフネと呼ばれるシンクに水を溜め、流れている状態で 使用されてきた。ミジャヤフネで使われた水は、各家にある沼に流れ、沼で飼われている鯉がゴミを食べ、浄化して水路へと戻された。
    五味沢集落に流れる沢、水路などには、様々な生き物が住み着き、それを獲り、食料としても利用がなされてきた。利用がなされてきた生き物は、タニシ、ドジョウ、コイ、イワナ、マスであった。
    集落では、ミジャヤフネや水路でワラビ・ウド・トチノミ・フキのアク抜き、山菜・マス・イワナ塩戻し、マメ・乾物山菜の水戻しなどを使ってきた。現在でも水路での山菜の塩戻しやアク抜きなどの利用が残されている。

     

    6. 結論
    ①水からつながる周辺環境と集落
    観察していく中で、五味沢集落での沢・水路に関する利用は、非常に多岐にわたっていたこと、そして生業と深くつながりを持っていた。これら事象を見ていくと、水を核にして循環しており、持続可能なシステムを持っていたことが見て取れる。つまり、集落にとって沢・水路は、生活をする上でなくてはならないものであり、生活の大動脈であった。そして里山・奥山との生活的交流・交通がなくては生活が成り立たなかった。沢・水路は、集落の中で完結するものではなく、 周辺環境と深くつながりを持っていったと言えよう。
    ②変容した水利用と集落
    生活と深くつながっていた沢・水路は、社会システムが変化するにつれて、利用体系も大きな変化を遂げていった。社会システムは、自然環境にも影響を与え、その環境を変化させた。そして社会システム・自然環境の変化 は、集落における水利用をも変えていった。沢・水路の利用は、少しずつ失われていき、生活とのつながりも希薄化していった。そして集落にとっての生活の大動脈であった沢・水路と関係は疎遠となり、沢・流水を通して集落と周辺環境と深いつながりも少なくなっていった。

     

  • 中期大木式土器の編年 ~小梁川・高柳遺跡出土土器を中心に~(抜粋)

    剱持行史「中期大木式土器の編年 ~小梁川・高柳遺跡出土土器を中心に~(抜粋)」

     

    はじめに
    大木式土器は、主に東北を分布圏とする土器群である。大木1~10式まで設定されており、大木1~6式は縄文時代前期に、大木7~10 式は縄文時代中期に設定されている(山内1937)。本研究では、縄文時代中期前葉~中葉の大木7a式~8b式土器の文様を編年することを目的とする。

     

    1.先行研究
    1-1 縄文土器文様編年の研究史
    縄文土器の編年研究は、主に層位学的方法と型式学的方法によって行われてきた。山内清男は、年代学的単位として型式を制定し、松本彦七郎の層位学的方法を取り入れ、土器の編年を行った(山内1935)。
    多くの縄文土器の文様は、水平の帯状の画面に施文される。山内は、個々の土器型式を比する視座として、この帯状の画面を文様帯とした(山内1935)。
    1-2 中期大木式土器の研究史
    大木1~10式あるうち、縄文時代中期に設定されているものは大木7a~10式であり、大木7a~8b式の研究は主に中野幸大氏・丹羽茂によって進められた。

     

    2.研究方法
    本研究では、まず小梁川・高柳遺跡出土土器に施文されている文様の出現頻度を層位ごとに挙げる。その際、小梁川・高柳遺跡の報告書と先行研究を基に、集計する文様を分類した。次に、文様の特徴から土器を編年する。対象遺跡は、中期大木式土器の出土数が多く、土層が明確に分層されている宮城県小梁川・高柳遺跡とする。

     

    3.分析結果
    層位ごとの文様の出現頻度を集計した結果、小梁川・高柳遺跡出土土器を7段階に分類することができた。
    第1段階では、口縁部文様帯に弧線文変形型1類・円文・重層円文・ハノ字状文・充填短沈線文・対孤文3類が多く認められる。
    第2段階では、口縁部文様帯に楕円形横帯区画文・渦巻文・隆線で描く波線文が、多く認められる。胴部文様帯には、前段階で認められなかった対孤文1類が出現する。
    第3段階に至ると、対孤文1類が口縁部文様帯に多く認められるようになる。
    第4段階の口縁部文様帯では、前段階でも口縁部文様帯に認められた対孤文1類のうち、隆線と押圧縄文を組み合わせて描くものの数が増える。また横位曲流渦巻文・渦巻文が口縁部文様帯・胴部文様帯のどちらでも数が増える。
    第5段階では、弧線文系文様の数が減少し、渦巻系文様が多く認められるようになる。口縁部文様帯では波状横位曲流渦巻文や直線状渦巻文が出現するようになる。
    第6段階では口縁部文様帯で、波状横位曲流渦巻文が前段階に比べて出現頻度が増す。この段階に至ると、全面展開型連結横位渦巻文が多く認められるようになる。
    第7段階は、口縁部文様帯と胴部文様帯の画する横位区画を崩壊し、口縁部文様帯~胴部文様帯全面展開型連結縦位渦巻文の数が増える。

     

    4.考察
    分析結果から、中期大木式土器に特徴的な弧線文系文様は、第1段階に多く認められる円文・重層円文が、文様帯の圧迫を受け、半円状に変形し、形成されたと考えられる。弧線文変形型1類は、下部弧線文が波状口縁の圧迫を受けて形成されたと考えられる。波状口縁の圧迫を受けない弧線文は、波状口縁に沿う弧線文と相対し、対孤文3類となる。
    この対孤文3類は、第2段階で胴部文様帯に転移し、対孤文1類として見られるようになる。第1段階で口縁部文様帯に見られた弧線文変形型1類は、文様帯の圧迫を受け、台形状区画文・長方形区画文に変形する。要するに、口縁部文様帯が、胴部文様帯に転移したのである。
    この胴部文様帯に認められる対孤文1類は、第3段階で口縁部文様帯に見られるようになる。これは第2段階の胴部文様帯が、第3段階に至って口縁部文様帯に再び転移したと考えられる。
    第4段階に至ると、対孤文1類はさらに出現頻度を増す。対孤文1類は、隆線に縄文を沿わせる技法で描かれるようになる。また、口縁部文様帯に描かれる長方 形区画文の出現頻度が非常に高くなる。これは、第2段階で胴部文様帯に見られた長方形区画文が、第4段階に至って口縁部文様帯に遷移したと考えるのが自然である。ただし、この長方形区画文は、第3段階では見られなく、その詳細な変遷過程は、本研究の分析結果からは読み取れない。
    渦巻系文様は、第 1段階~第7段階にわたって見られるが、第5段階~第7段階で非常に多く見られるようになる。また第5段階以降は、弧線文系文様があまり見られなくなる。 渦巻文は、口縁部文様帯・胴部文様帯で、横位に展開するようになる。口縁部文様帯では、波線文と組み合わさって展開する波状横位曲流渦巻文、直線を呈し横 位に展開する直線状渦巻文、曲折しながら展開する直折渦巻文など、その様相は複雑になる。胴部文様帯では、横位曲流渦巻文が隆盛する。この横位曲流渦巻文 は胴部文様帯で隆盛し、やがて縦位区画文を崩壊するように展開するようになる。第6段階で、このような文様が顕著になる。また、長方形区画文変形型に介入し、長方形区画文渦巻介入型になる。
    第6段階では、渦巻文が縦位に展開するものが出現する。口縁部文様帯と胴部文様帯を画する横位の区画文を崩壊し、口縁部から底部までを一つの文様帯として描くような土器が出現するようになる。この特徴の認められる土器は、第7段階でさらに数を増す。

     

    原文から抜粋

     

  • 田川櫛(抜粋)

    設楽舞華「田川櫛(抜粋)」

     

    1.研究目的
    櫛は、古来より形態と用途を変化させながら用いられてきた道具の一つである。櫛の歴史の中で最も使用されてきた素材は木材で、木で作られた櫛は特に木櫛という。木櫛は日本各地で生産されているが、山形県においても木櫛が作られていたことが明らかとなった。山形県鶴岡市大字田川で作られていた木櫛は「田川櫛」という。
    現在は櫛製作の道具が残っているものの、製作技術やその歴史など実態の多くが謎である。本研究は、田川櫛の現存する道具を観察、記録し、その製品と製作技術、流通消費の実情を明らかにすることを目的とする。

     

    2.先行研究
    田川櫛の先行研究は現在のところ存在せず、田川で櫛作りが行われていたという事実は、文献にはほとんど見ることができない。

     

    3.研究対象
    田川櫛製作道具79点(致道博物館所蔵48点[1969(昭和44)年8月21日寄贈]・鈴木美枝さん所蔵31点)を主な研究対象として調査を行った。

     

    4.研究方法
    製作技術については、他地域の伝統的な櫛製作技術をモデルとし、田川櫛の製作道具と、道具から考えられる技法を当てはめることで田川櫛の製作技術を復元する。
    製品については、未製品と櫛の注文控えのメモから、田川櫛の種類、樹種等を調査していく。同時に伝世品についても調査を進める。歴史については、田川櫛を 製造販売していた鈴木家(本家・分家)の方々にご協力いただき聞き書きを行い、製作道具に残された墨書や櫛の注文控えの資史料から調査する。

     

    5.製作技術
    田川櫛の製作技術については、おおまかな枠組みを捉えることができた。櫛製作の工程に、東京あるいは東日本との大きな差はないようである。田川櫛の特徴としては、道具が挙げられる。意匠が細かく、漆を塗布するなど装飾性が高い。これは、田川櫛の二代目で、宮大工でもあった喜惣冶さんの影響を受けたものと思われる。

     

    6.製品
    伝世品(筋立て・際出し・鬢出し)と、田川で作られていた可能性がある櫛として竹梳き櫛を記録した。また、 道具、未製品、聞き書きから、現存する製品以外にどのような櫛が作られていたのかをまとめた。これにより、立櫛・横櫛の区別なく、地元の木材を多く使用し櫛を作っていたことが明らかになった。田川櫛には、ナシやクロガキといった木材が使われているが、この木材選択は、櫛に最上とされるツゲが手に入りにくい環境下で、鶴岡(庄内)の自然環境や、木材利用の文化に合わせた木材の選択が櫛職人により行われ、形成されたといえる。

     

    7.流通・消費
    東日本は戦後まで東京と木曽の櫛の商圏であり、鈴木浩一さんの家からは、長野県木祖村のお六櫛と思われる櫛が見つかっている。
    また、田川櫛は一つの家の生業であり、生産の規模は大きくはなかった。これらのことから、田川櫛は、他地域からも櫛の供給がある中で、地域の櫛屋として、鶴岡の櫛供給の一端を担うものとして存在していたといえる。

     

    8.歴史
    聞き書きと道具に残された墨書によって、田川櫛の歴史を概観することができた。詳細な時期は断定できないが、田川櫛は江戸時代末期にはじまり、戦後まもなく生産を終えたことがわかった。

     

    9.まとめ
    戦後、セルロイド等新しい素材の櫛の登場や、洋髪化によって全国的に木櫛を扱う櫛屋が減少した。田川櫛もその流れの中で生産を断った櫛屋の一つである。しかし、櫛の生産を辞めた後も田川櫛を求めて訪ねてくる人々がいたとの証言や、残された道具の様子からは自ら工夫して製作した道具を使い、手入れを怠らず、地域の人々に親しまれる木櫛を作っていたことがわかる。
    田川櫛は、一つの家の生業の歴史であると同時に、田川と鶴岡の歴史でもある。田川櫛を通して、田川を含めた庄内の木材資源の利用方法や、鶴岡の町の女性の生活の一面について、新たな見解を得ることができるだろう。
    本論は田川櫛の一端を記録したにすぎないが、田川櫛の存在を再び浮かび上がらせることができた。これをひとつのきっかけとして、田川櫛の調査がさらに行われることを願う。

     

    原文より抜粋

     

  • 東北地方における伝統的木造和船の記録研究(抜粋)

    角田美里「東北地方における伝統的木造和船の記録研究(抜粋)」

     

    「船」というものは古来より、人間が食糧を得る為、荷物や人を運ぶ為等に使用されてきた。諸説あるが、船は一本の丸太を刳りぬいた丸木舟に発し、木材を重ね合わせて繋ぎ合わせた筏船、板を貼り合わせた板船、竜骨船など、様々な発展を遂げた。
    日本における丸木舟の歴史は、縄文以前まで遡る事が出来る。現在まで、太平洋側を中心とし、北海道や近畿地方に多くの埋蔵丸木舟が発見されている。おそらく、土地改良による発掘調査が少なかった日本海側にも相当数の丸木舟が埋蔵されていると考えられる。日本の丸木舟は次第に、単材で造られた舟から展開し、 幅を広げるため底面に補助材を入れたり、高さをつけるため棚を付けた舟へと変化していった。
    そして今、材の枯渇・高騰や船大工の後継者不足および技術の衰退など、様々な理由によって木造船は姿を消しつつある。代わりにFRP樹脂や鋼で造られたものが主流となり、日本独自の発展を遂げた伝統的な木造の舟の多くは、その姿を消そうとしている。

     

    1.研究動機
    急速な勢いで日本の木造船が消えていく。今ではもう残存する木造船舶は少なく、現在でも使用されているものとなれば更に減衰する。
    一方、木造和船は、戦後急速に減少していったため、他の民具に比べ記録が少ないのが現状だ。詳細な記録も無しに、既に消滅した木造和船も存在する。文化伝 承という分野に於いて、その文化が復元可能なレベルまで精巧な記録が出来れば、それが最も良い研究の方法なのではないだろうか。そこで私は、詳細なイメージを記録することで、木造和船の文化を後世に残す一助となることができるのではないかと考え、本研究とした。

     

    2.研究方法とその目的
    東北地方日本海側を中心とした伝統的木造和船および推進具の構造を記録する。実測図面により伝統的木造和船の地域性を明らかにする。現地調査や観察、考察を行う事により、後世に復元可能な木造和船の形態を残す。
    本研究は、実測した図面を主とした資料とする。方法としては、調査地に行き、対象となる木造和船の実測調査を行い、図面を取る。図面や撮影した写真を元に、船の観察と考察を行う。その上で聞き書き調査や文献購読を行い、東日本に存在する木造和船の構造や用途をまとめる。調査地の基礎資料は、先行研究の資料と、調査地ごとに発行されている郷土史誌や漁業の調査報告書を参考とする。

     

    3.木造和船の観察・考察
    今回調査の対象としたのは青森県下北郡風間浦村下風呂・同郡東通村尻屋のイソブネ、秋田県山本郡八峰町八森のマルキ、男鹿市戸賀のマルキブネ、八郎潟のカタブネ、山形県酒田市飛島のシマブネの6艘だ。
    以下、対象船舶の概要を説明する。
    イソブネ
    イソブネは、北海道の南部、青森県、秋田・岩手県の北部で使用されてきた木造船だ。イソブネの多くは「ムダマハギ」という刳り底構造を持っている。この構造は秋田県米代川以北にのみ見られる造船方法だ。イソブネは使用範囲が広く、地域や船大工毎に多様な装飾を持つ。
    マルキ
    マルキはイソブネと同様、ムダマハギの構造を持つ。現在は主にハタハタ漁に使用される為、ハタハタ船と呼ばれる事も多い。マルキはイソブネと比べて2、3m程船体が大きく、遠洋にも適した構造だ。現在でも八森、岩舘で4艘程の舟が現役で使用されている。
    マルキブネ
    この舟はその名の通り1本の丸太を刳りだして造った単材丸木舟である。丸木舟などの小型の船舶は主に磯での漁撈に使用された。男鹿半島の丸木舟は四角く、厚みがあるフォルムに特徴がある。本研究で調査したマルキブネは現役のもので、おそらく日本で最後の
    単材丸木舟だろう。
    カタブネ
    カタブネは八郎潟で使用されていた舟である。「オモキ造り」という秋田県米代川以南に見られる刳り底の構造を持つ。海の舟とは形が異なる、細長く直線的な棚と「オガミアワセ」と言う舳先部分が特徴的である。
    シマブネ
    シマブネは飛島のみで使用されていた木造船だ。この船は明治時代の船大工鈴木栄助氏が設計したものだとされる。オモキ造りである。以上の木造和船の観察・考察を行い、詳細な記録を取る。

     

    4.おわりに
    「生業活動の記録・保存」という活動に於いて、その主体を担うのはやはり生業活動を行う生活者本人である。
    木造船の文化を研究して、私は実際に漁業を生業に生活している方々と、私達が考える生業保護では、大きな隔たりがある事に気づかされた。その問題はこれからの生業研究の課題となってくるだろう。私たちはあくまで部外者であり、生活者ではない。木造和船文化のみならず、私たちは文化の取捨選択を慎重に行うべきだ。しかしその隔たりをどう解決していくのか、私にはまだ答える事が出来ない。今回の研究では、木造船研究を通して、記録研究の重要さを伝える事が出来たのではないかと思う。

     

    原文より抜粋

     

  • 青苧復活夢見隊の活動に見る伝統生業の復元とその模索 −山形県西村山郡大江町の事例から− (抜粋)

    髙橋里奈「青苧復活夢見隊の活動に見る伝統生業の復元とその模索 −山形県西村山郡大江町の事例から− (抜粋)」

     

    【研究背景と目的】青苧は古代より衣料の原料として生活に取り入れられ、日常生活に欠かせない植物繊維の一つであった。大江町では青苧を通し、地区も世代も超えた人々の繋がりが生まれている。本研究では、「青苧復活夢見隊」の活動に4年間携わりながら記録した青苧の栽培・加工技術の復元と製品開発などの経緯、現状についてまとめた。

     

    【研究手法】主に、フィールド観察および聞書き調査によって行う。補足資料として空中写真や統計資料などを利用する。また、それらの調査や文献資料をもとに年表を作成する。

     

    【「青苧復活夢見隊」】夢見隊は、山形県や大江町から「地域人材育成事業」、「水田農業構造改革」として助成を受け、平成20(2008)年より活動を開始した。主な活動は青苧の栽培、畑地の管理、青苧を利用した製品開発であり、これまでにバッグ、暖簾、着物、ランチョンマット、青苧の葉を利用した青苧うどん等を製品化し、他地域との差別化などを意識した製品開発を心がけている。近年、注目を集める第六時産業としての多彩な発展を目指している。

     

    【青苧の衰退について】昭和に入ると養蚕、米作りに加えてベントナイトへの就業や果樹栽培などの新たな生業への移行が起こった。さらに戦後の高度経済成長期、新たな生活手段の選択として出稼ぎなどの就業体系が広く受け入れられるようになった。青苧は生活の必需品ではなくなり、戦後生まれの世代間で受け継がれるものではなくなったようである。

     

    【まとめと今後の課題】現在、夢見隊により復活した青苧は衣料品やインテリア、さらには食の方面にまでその利用方法を拡大した。将来的には、各集落の休耕地を活用し、高齢者が一人でも管理出来る青苧栽培の環境づくりを目指している。4年間夢見隊の活動に参加させていただいたことで青苧の栽培・加工技術の復元と製品開発などの経緯、現状について具体的にまとめることが出来た。

     

    原文から抜粋

     

  • 明治三陸津波における救護・衛生対策(抜粋)

    浅野友理映「明治三陸津波における救護・衛生対策(抜粋)」

     

    【はじめに】2011年3月11日、東日本大震災が発生。私の住む宮城県多賀城市では、感染症等の二次的被害を予防するため市職員による石灰の噴霧、市民に対する石灰の分配が行われていた。そこで本研究では、明治29(1896)年の明治三陸津波を取り上げ、当時の宮城・岩手両県下の救護活動及び衛生対策を明らかにすることを目的とする。

     

    【研究方法】『宮城県海嘯誌』、『岩手県災害関係行政資料』といった行政史料、その他当時発行されていた新聞、雑誌等を史料として研究を行なった。

     

    【被災地における救護・衛生対策】①津波後の衛生上の注意:宮城・岩手の両県知事は、被災地の汚染された環境における伝染病の発生を警告し、行政機関や警察に対して衛生上の相当の措置を講じるよう訓令し、被災者には衣食住の範囲で規定した摂生の心得を告諭し自衛を促した。
    ②臨時病院における医療救護:臨時病院では、医師や看護人により負傷病者の救護が行われるとともに伝染病の発生や蔓延を予防するための衛生対策が実施されていた。
    ③死体の取片付け(6月~7月):被災地では、負傷者救療に次いで死体の取片付けが急務とされていた。この任に当たったのが、知事の要請を受け派遣された警察官や工兵、津波被害を免れた隣郡からの人夫であった。
    ④清潔法の施行(8月):陸上の取片付けが終了した被災地では、漂着死体の取片付けとともに井戸の浚渫が急務とされていた。宮城県では、8月1日から24日にかけて本吉・桃生・牡鹿の3郡で知事によって制定された清潔法が施行されている。

     

    【終わりに】
    県当局者・警察・人夫・被災民が出来得る限りの衛生対策に励み、医師らは負傷者救護に当たるとともに、病院内の疾病予防に取り組んだ。結果、幸い被災地に懸念されていた疾病の流行は見られなかった。

     

    原文から抜粋

     

  • 東北地方の切子玉の研究 −日本列島東北部の切子玉の特質− (抜粋)

    福島明恵「東北地方の切子玉の研究 −日本列島東北部の切子玉の特質− (抜粋)」

     

    【はじめに】
    切子玉とは古墳時代後期に全国の墳墓から出土する玉の一種である。水晶製であり、形態は多角錐台(概して六角錐台)を底面で接着した形を呈し、長軸を中心に孔を穿つ(大賀2009)。装飾品として利用されていたのだと思われる。

     

    【研究方法】今回の研究では従来されてこなかった古墳時代後期における東北地方の独自の玉文化を切子玉から見出すことを目標に掲げた。
    本研究が行う調査方法は大きく2つである。
    第一は、東北地方各地から出土する切子玉の法量の計測を行う。切子玉の法量には幅がある事が大賀克彦氏の研究(2009)によって明らかになっている。ここから東北の傾向を捉えようと考えたものである。
    第二は、東北地方各地から出土する切子玉の使用痕の観察を行う。本研究の使用痕観察で求めるものは簡便に述べると使用痕の進行程度であり、要は資料が製作後に受けた損傷の累積程度または強弱である。

     

    【結論】東北地方では玉文化(切子玉)の盛行時期にずれがある。東北以南では玉文化が衰退し、出雲の玉製作も既に終了した7世紀後半に東北地方では切子玉の使用例が増加し、以降綿々と8世紀まで玉文化が継続された。東北地方では7世紀後半以前の古くに製作された玉を伝世させながら長期間使用し続けたために損傷が著しく激しい。また、破損した玉も構わず使用していたところを見ると生産が終了して切子玉の総数が限られている故の強い執着を感じるようである。加えて、東北地方には切子玉に対して強い大型指向であることが認められる。また、東北地方の異色点として一遺構から出土する玉の量が膨大でることも挙げられ、大型指向である事と加味して考慮すると東北地方は玉を誇示するよう華美に装飾する趣向があったのだと考えられる。以上が本研究で迫ることが出来た東北地方における玉文化の独自性である。

     

    原文から抜粋

     


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教員紹介

北野博司 教授/学科長
Kitano Hiroshi

北野博司 教授/学科長
Kitano Hiroshi

富山大学人文学部卒業。文学士。

専門は考古学。実験考古学や民族考古学という手法を用いて先史・古代の土器作り技術や使用実態を研究しています。

 

時代や地域によって多様な姿をみせる列島の土器文化について、なぜ違いが生じるのか、その理由を土地の自然環境や生業、社会などとの関わりから考えます。 土器の野焼きや調理の実験では、土や木や火など自然物を自由に使いこなした先人たちの知恵を再発見し、驚きの連続です。技術が機械化された現代にどっぷり浸かった自分自身の人間性を回復する瞬間かもしれません。また、世界には伝統的な土器文化を伝えている人々がたくさんいます。アジアのタイやラオス、韓国などに出かけ、土器製作者たちから深い自然知に基づいた技術や暮らしのあり方について学ばせてもらっています。 もう一つは近世城郭の石垣築造技術に関心を寄せています。壮大で優美なお城の石垣はどうやって造られたのか。生身の人間が簡単な道具だけで巨石を加工し、運搬し、積上げた石垣技術。その実態はどんなものであったか。人間の技術のあゆみをたどり、未来の技術はどうあるべきか。 本物の観察、実体験を重視ししつつ、そんな問題を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 

2010 「須恵器窯業の生態と社会?窯の分布論」  『古代窯業の基礎研究 須恵器窯の技術と系譜』窯跡研究会
2012 『置賜地域の終末期古墳6』(編著)  『うきたむ考古』第17号(単著)
2012 「最上川流域の古墳とムラ」  『うきたむ考古』第17号(単著)
2012 「ラオス北部における伝統的土器製作と焼き締め陶器製作-ラオス人民民主共和国ルアンパバーン県ファン・ルアン村の伝統的水甕製作を中心として-」  『岡山理科大学研究紀要』第48号(共著)
2012 「ベトナム北部からラオス北部にかけての焼き締め陶器製作及び土器製作の展開」  『東南アジア考古学』第32号(共著)
2012 「西川町六十里越街道石畳の速聴調査」  『平成23年度文化財保存修復研究センター研究成果報告書』(単著)
2012 「高畠石のある町並みに関する研究」「米沢市戸塚山106号墳の発掘調査」  『平成23年度文化財保存修復研究センター研究成果報告書』(共著)

その他、全国各地の文化財保護審議員等を歴任

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田口洋美 教授
Taguchi Hiromi

田口洋美 教授
Taguchi Hiromi

東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻社会文化環境コース博士課程修了。博士(環境学)。

 

20代半ばに映画製作スタッフから研究者へと転身し、中部東北日本の狩猟文化研究で実績を積みました。民族文化映像研究所、日本観光文化研究所主任研究員を経て1996年に狩猟文化研究所を設立、同代表。1990年マタギサミットを発起、現在も主宰幹事を務めています。山と人と動物を知る異色のフィールドワーカー。豊かな森林が育む生物多様性を基盤とした先人の狩猟採集活動について歴史社会的な文脈を重視しながら技術や行動といった具体的視点から研究。近年はロシア極東、シベリア地域の先住民族研究や野生動物の保護管理問題などに着手しています。

 

1999.4~  (社)日本ペンクラブ環境委員会委員  日本及び世界・主に日本国内を中心とした国際的環境問題に関する活動(環境問題に関するイベント、シンポジウム等)を通して環境に対する人々の意識向上に寄与する。

2006.7〜2009.6 農林水産省農作物野生鳥獣被害対策アドバイザー
2007.10〜2009.11 福島県生活環境部環境共生領域自然保護グループ「福島県ツキノワグマ保護管理計画検討会」 委員  福島県
2007.2〜2009.3 富山県生活環境文化部自然保護課「有害鳥獣捕獲体制検討委員会」 委員  富山県
2007.8 長野県林務部森林整備課「狩猟者確保対策検討会」 委員  長野県
2008.8〜 山形県文化環境部みどり自然課「山形県ツキノワグマ保護管理計画検討会」 委員  山形県
2006.6〜 環境省・(財)自然環境研究センター「南東北地域広域保護管理指針検討会」 委員  南東北地方
2008.6〜 山形県小国町総務企画課「第4次小国町総合計画策定にかかる小国町まちづくり研究会」 委員  山形県西置賜郡小国町
2012  学術研究発表 『国際山岳年プラス10 シンポジウム2012年』  国際山岳年プラス10実行委員会、日本大学文理学部自然科学研究所、日本山岳会

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謝 黎 准教授
Xie, Li (Sha, Rei)

謝 黎 准教授
Xie, Li (Sha, Rei)

昭和女子大学大学院生活機構研究科生活機構学専攻博士課程修了。博士(学術)。

 

学生時代からアジアの布に魅かれ、チャイナ服の研究と収集をはじめました。不定期的に博物館や美術館、ギャラリーでコレクションの展示企画を開催し、その魅力を多くの方々に紹介しています。また文化人類学的な視点から東・東南アジアの「衣生活」を取り上げ、それらを民族アイデンティティーの再生産、民族博物館展示の表象などの視点から研究し、アジア地域の「近代化」における「民族」の生存、融合や消滅、「伝統」のあり方などの研究を物質文化の観点から進めています。こうした研究を通して、「近代化」による地域集団間の文化的差異の収束や拡大などの変遷過程、植民地モダンの形成について検討しています。現在、日中の化粧文化(美意識や美人観)についても調査しています。

 

著書、研究論文等

2004 (2011) 『チャイナドレスをまとう女性たち―旗袍にみる中国の近・現 代』単著 青弓社
2009 「〈華〉・〈洋〉の挾間の摩登女子」『繊維製品消費科学』学会誌第50巻第9 号
2010「女明星と〈映画服〉」『繊維製品消費科学学会誌』第51巻第1 号
2010「束胸」から「放胸」へ」『繊維製品消費科学学会誌』第51巻第3号
2010「多様な旗袍素材の陰で」『繊維製品消費科学学会誌』第51巻第6号
2010「旗袍を仕立てた職人たち」『繊維製品消費科学学会誌』第51巻第8号
2010「創られた〈民族衣装〉と多様な旗袍像」『繊維製品消費科学学会誌』第51巻第8号
2010「中国女性の百年、旗袍からチャイナドレスへ」『繊維製品消費科学学会誌』第51巻第12号
2010「絵はがきにみる東北・日本・アジア―上海の風俗と歴史」『東北学』第25号東北芸術工科大学東北文化研究センター、柏書房
2011 『チャイナドレスの文化史』単著 青弓社
2011「番外の民―中国雲南省紅河州金平県の〈苦聡人〉たち」『東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要』第10号pp.85-90
2012 「〈苦聡人〉はなぜ森に戻りたいのか?―狩猟採集から農耕定住への21世紀における葛藤」『東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要』第11号pp.127-134
2012 「人の流れの中でのチャイナドレス―移住者・ディアスポラたちの生活文化」『オープン・リサーチセンター整備事業研究成果報告書二』東北芸術工科大学東北文化研究センター pp.47-52
2014 「現代中国における〈伝統服〉の受容に関する一考察―上海APEC会議の唐装を事例に」『東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要』第13号 pp.95-105
2014 「中国東北地域の定住化と伝統文化の継承―エベンギ族(根河)とオロチョン族(阿里河鎮)を事例に」『環境動態を視点とした地域社会と集落形成に関する総合的研究、平成25年度研究成果報告書』東北芸術工科大学東北文化研究センター pp.41-54
2015 「なぜ〈素顔美人〉が好まれるか?―化粧への〈まなざし〉と中国的〈美人観〉」『歴史遺産研究』NO.10 pp.37-42
2016 「チャイナドレスに隠された思想」日中文化誌『和華』第9号pp.35-37
2016 『世界の愛らしい子ども民族衣装』共著 株式会社エクスナレッジ
2016 「植民地台湾における旗袍」『東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要』第15号 pp.99-106

 

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竹原万雄 准教授
Takehara Kazuo

竹原万雄 准教授
Takehara Kazuo

東北大学大学院環境科学研究科博士課程後期3年課程修了。博士(学術)。

専門は、近世・近代の生活史。地域の人びとの視点はもちろん、それを「支配」する人びとの視点にも目を向けながら当時の社会のあり方を追究しています。

歴史学は史料を探してあちこちをまわり、それを独自の解釈で読み解きながら新しい「歴史像」を作り上げていく魅力的な学問です。とくに、くずし字で書かれた古文書を解読するのは、一種の謎解きのような楽しみがあります。史料はまだまだ地域の旧家の蔵に眠っています。この貴重な史料を永久に伝えていけるよう、地域の歴史を守ることも私たちの使命です。歴史を通して専門的な能力を身につけ、地域に貢献できるような人材を育てて行ければ考えています。

 

2008 「骨寺村」の山野利用 佐藤幸蔵家文書を事例として  平成20年度文部科学省オープン・リサーチ・センター整備事業「東北地方における環境・生業・技術に関する歴史動態的総合研究」第2回2008年度全体研究会予稿集
2008 災害対策をめぐる資料保全活動と博物館?「資料ネット」の活動を事例として  明治大学博物館研究報告 第13号
2007 札研究をめぐる現状と課題 付・明治大学博物館刑事部門所蔵 札目録  明治大学博物館研究報告 第12号
2010 コレラ流行と有志の活動─明治15年宮城県のコレラ流行を事例として─  歴史遺産研究 №6
2011 近世東北の疱瘡対策  真澄学 第6号
2012 「疫病予防の問題点 1882年、宮城県の「コレラ騒動」」  『講座 東北の歴史 第4巻 交流と環境』 清文堂
2012 研究抄録 「明治前期伝染病流行にみる民衆と行政」  『東北近世史』 第35・36合併号
2012 共同研究 「出羽国村山郡鶴巻田村折原家文書目録」  『歴史遺産研究』No. 7 東北芸術工科大学芸術学部歴史遺産学科
2012 研究発表 「安政期コレラ流行と「医学的対応」─仙台藩を事例として─」  仙台近世史フォーラム 東北学院大学

takeharaworks

長井謙治 准教授
Nagai Kenji

長井謙治 准教授
Nagai Kenji

東京大学大学院新領域創成科学研究科社会文化環境学専攻博士課程修了。博士(環境学)。

 

私は小学校6年生の時に畑で土器片を採集して考古学に魅せられました。専門は考古学。文字による文献が残される以前の歴史を扱っています。

東アジア的な視点により日本列島の人類史を構築することを目的として、実験考古学や民族誌的なアプローチから過去の失われた行動の復原を試みています。現代と考古学との関わりについて、石器づくり活動を通した市民考古学も積極的に推進しています。考古学は土の中から出土した生々しいモノを対象とする学問です。時にリアリティと興奮もあります。物言わぬモノに息吹をかけて、モノに何を語らしめるかは考古学者の腕の見せどころ。観察眼を鍛えるべく、時には野外に出かけて、森羅万象に対する感性を皆さんと一緒に磨いていきたいと考えています。愚直なまでにモノと対話する努力を惜しまない、そんな学生が育つことを望んでいます。

 

2006 研究論文 A Chaîne Opératoire Approach to the Production of Tanged Points from South Kanto (Japan), Current Research in the Pleistocene 23: 18-21.
2007 研究論文 Flake Scar Patterns of Japanese Tanged Points: Toward an Understanding of Technological Variability during the Incipient Jomon. Anthropological Science 115 (3): 223-226.
2009 単著 『石器づくりの考古学―実験考古学と縄文時代のはじまり』同成社
2011 研究論文 「『前・中期旧石器』時代の石器製作技術」『旧石器研究』7: 93-106.
2012 研究発表 「朝鮮半島における中期から後期旧石器時代への移行」 『公開シンポジウム ホモ・サピエンスと旧人類』(文部科学省科学研究費補助金新学術領域研究) 東京大学大学院理学系研究科・理学部小柴ホール
2014 研究発表 「遺跡データベースからみた八戸の縄文集落変遷」『公開研究会 八戸の集落一万年』(文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業) 八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館
2015 研究発表:Archaeological Research at the Hinata Caves for Enhancing Public Archaeology. A Strategy of Cultural Enrichment Museum: Heritage Education, The 7th International Workshop of Heritage Education and Site Preservation for Commemorating the 23rd Yeoncheon Jeongok Paleolithic Festival. Jeongok: Jeongok Prehistoric Museum.
2015 編著 『日向洞窟遺跡の発掘記録―第1次発掘調査報告書』東北芸術工科大学東北文化研究センター
2015.4~ 科学研究費補助金(若手研究(B))『更新世/完新世移行期の人類大移動期にみる極東アジア石器製作伝統の実験考古学的研究』(研究代表者:長井謙治)
2015.4~ 考古学研究会全国委員 東北ブロック 委員

 

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非常勤講師

非常勤講師

天野真志
川島秀一
三田辰彦
山口博之


目指せる代表的な職業と取得できる資格

代表的な進路先:
公務員、団体職員/ライター、文芸作家/美術館、文化施設/旅行、観光、ブライダル/ホームページ・雑誌編集/広告代理店、マスメディア/販売、商業施設/化学、材料、環境/金融機関/NPO(芸術、教育)/学芸員/学校教員(学科によって取得可能資格が異なります)
取得できる資格:
小学校教諭一種免許( 中学校教諭一種免許取得者が、指定の通信科目を受講することで取得できます)/中学校教諭一種免許(社会)/高等学校教諭一種免許(地理歴史)/学芸員