因幡聡美「法隆寺・百済観音像について -その特徴的造形からの考察-(抜粋)」

  法隆寺大宝蔵殿に安置されている観音菩薩立像は「百済観音」の名で親しまれる飛鳥時代の木彫像である。江戸時代の記録に本像が法隆寺に安置されていたことが記されているが、それを遡る伝来について文献からはたどることができず制作当初の事情は現在明らかではない。また本像の源流についての研究史をみてみると中国南北朝時代の斉・周、隋あるいは南朝にその源流が求められている。しかしそこには各時代のどの像の、どの部分に本像と類似の部分があるかが明確に述べられていないようである。本研究では本像に見られる特徴的な三箇所の造形を挙げ、その造形が中国ではいつの時代に見ることができるかを考察す るという方法で、本像の源流となる時代を検討した。またその特徴的造形を日本の飛鳥時代、白鳳時代、奈良時代頃までの作例とも比較することによって、本像の制作時期などの再検討も試みた。考察対象の特徴的造形として右肩から左腋にかけて表わされた僧祇支、腰位置の裳の折り返しの上から帯紐で留める形、膝前に表わされた環を用いた帯紐の結び目、の三箇所を取り上げた。   まず右肩から左腋に表わされた僧祇支である。仏菩薩像に表わされる僧祇支とは、左肩から右腋に斜めに表わされることが多い下衣のことをいう。中国南北朝時代、隋、唐にわたる作例で本像のように右肩から左腋 にかけて表わされた像はきわめて少なく、圧倒的に左肩から右腋にかけて表わされたものが多かった。しかし注意を引く作例として甘粛省敦煌莫高窟 の隋代の壁画中から、右肩から左腋にかけて僧祇支のような下衣が表わされた菩薩像が増加しており、ここに何らかの隋代からの服制の変化をうかがうことができる。また日本の作例もこの形は中国作例同様に少なく、右肩から左腋にかけて表わされた像はわずか三例であった。さらに日本では僧祇支が表わされた像自体が少なく、あまり採用されなかった着衣であったようで、奈良時代になるとほとんど見られなくなる。   次に裳の折り返しの上から 帯紐でとめる表現である。裳は仏菩薩が下半身に纏うスカート状の布で普通正面で打ち合わせ、上部を帯紐でとめ余った衣端を下方に折り返すことが多い。本像は折り目の上からさらに帯二条で留められており、体正面中心で一度結び目を作り、余った帯紐を足下まで垂らしている。このような裳の折り返し部分の形をもった作例は中国では隋代の金銅仏に特に多く見られ、唐になると量感表現に富んだ石造仏にも見られるようになる形であった。また日本の作例にも四例を見つけることができた。しかし白鳳時代頃からは菩薩像の裳は折り返すのみという着け方が主流となる。   そして膝前に表わされた環を用いた帯紐 の装飾を見てみると、中国にも日本にも類似の形はなかった。では本像の環を用いた帯紐の装飾の源流をどのように考えるべきであろうか。中国には春秋戦国時代より現実の貴族の装身具に玉環を佩する(玉佩)風習があり、その着用方法の規定については『後漢書』「輿服志」、『隋書』巻十二、志第六、禮儀六や『新 唐書』「車服志」などに記載があることから、後漢から唐にかけて貴族の腰帯からぶら下げていたとされる装身具に玉環を飾る慣行があったことを示している。 貴族の装身具として用いられた玉環は、隋代になると仏教尊像に採用される。ボストン美術館蔵石造菩薩立像をはじめ隋代の菩薩像の体側面や背面に垂らした帯紐には玉環がつけられ、その上部や下部にリボンを伴う結び目を造る形が出現するのである。帯紐に環を飾るとう形態は貴族の装身具に源流を求められるものであり、隋代の菩薩像において考案された装飾ではなかったということである。そのような隋代の作例にはそれまでの造像には見られなかった、貴族の身に着けていた実際の装飾品を実物のように再現するという当時の風俗を反映させるという態度が支配していたといえよう。一方、帯紐にリボンを伴う結び目を造るだけのものは、北魏の龍門石窟釈迦説法図中の脇侍菩薩像にも表わされているように、北魏にはすでに仏教尊像の帯紐にリボンを伴う結び目を造るということは採用されている。帯紐の環を用いた結び目に関して、以上のことを踏まえ本像の膝前の結び目について考察すると、北魏から続く仏教尊像にリボンのついた結び目を表わすという慣習と、隋代から増加した帯紐に環を飾るという貴族の装身具を具体的に表わすという気風をもって、日本で独自に環とリボンが組み合わされ創作されたものであると指摘できよう。さらに仏師のモチーフへの認識不足、そして七世紀の造像にしばしばみられる様々な時代のモチーフを一つの像に取り入れるという自由自在な造像形態の一端をうかがい知ることのできる像として注目できる。   本像の制作時期については光背や宝冠意匠などから七世紀中頃とする説が有力視されている。七世紀前半の日本は止利仏師らによる中国南北朝時代の様式の色濃い造像が主流であった。しかし、止利が法隆寺 金堂釈迦三尊像を造像した頃(623年)、中国では隋にかわり唐が建国されており、止利様と呼ばれる様式は時代遅れであったといえる。七世紀前半には広隆 寺に、隋代の菩薩像の玉佩からヒントを得たとの指摘のある腰佩垂飾(帯紐に環や結び目がついている)をつけた半跏思惟像が朝鮮半島から将来しており、この頃は止利様の南北朝時代様式のほかに隋の形を備えた像も存在していたということになる。そのため本像の上限を七世紀前半まで幅広く考えることも可能であろう。七世紀後半に止利様が造像の表舞台から退くと初唐様式が流入する。すなわち本像の制作時期の下限として考えられるのは初唐様式の流入以前の七世紀中頃 と推測することが可能であろう。隋はおよそ四十年で滅び、いわゆる「隋様式」という普遍的な統一様式を完成させるには至らなかった。しかし、隋代に出現した新しい造形が存在することは現存作例や本研究の考察からも明らかである。本像は隋代に出現した新様の形態の趣を伝える貴重な作例であるといえるだろう。   原文から抜粋