阿部俊継「『寛文美人図』の成立について −特に『褄を取る』図像を中心に− (抜粋)」

  【はじめに】「寛文美人図」(図1)とは寛文期(1661~73)頃に流行したとみられている美人画の一形式である。本研究では図像としての側面から、何を典拠として「寛文美人図」の形が成立したのかを探ることを目的とする。   【研究史】「寛文美人図」の成立について言及した先行研究は以下の三つの説にまとめられる。Ⅰ「邸内遊楽図」の群像表現の少数化と背景の省略により成立したとする説、Ⅱ「舞妓図屏風」が一扇ごとに切り離されて成立したとする説、Ⅲ『伊勢物語』の影響により成立したとする説。   【遊楽図との関係について】近世初期風俗画のうち、遊楽が対象となった風俗図を「遊楽図」と総称し、虚構の妓楼を描いた「邸内遊楽図」はその多くが寛永期(1624~45)に描かれている。「邸内遊楽図」の女は鑑賞者に対して身体と顔を正面に向けほぼ直立しているが、「寛文美人図」の女は下半身と顔が逆を向いており、身体が大きく捻られている。このような舞姿の差異から、「邸内遊楽図」の女を一人抜き出したとしても「寛文美人図」は成立できないと思われる。   【「舞妓図屏風」との関係について】「舞妓図屏風」とは丈の低い小振りの六曲屏風の各扇に、一人ずつ舞姿の女を配したもので、制作年代は元和(1615~1624)から寛永(1624~1645)とされている。これら「舞妓図屏風」と舞姿の「寛文美人図」を比較してみると、「舞妓図屏風」では腰が太く表されるのに対し「寛文美人図」では腰が締め上げられている。また「寛文美人図」は、身体の関節を多用しS字に身体をくねらせているが、このようなS字の曲線は「舞妓図屏風」の女には見られないものである。このような姿型の差や描かれた目的の違いから「舞妓図屏風」を「寛文美人図」の成立母胎とすることはできないと考えられる。   【『伊勢物語』及び『縁先美人図』との関係について】『縁先美人図』(東京国立博物館蔵)は「寛文美人図」とされることが多く、女の姿型は「寛文美人図」の「褄を取る」姿型と同一のものである。奥平俊六氏は論文内で『縁先美人図』が『伊勢物語』「河内越」を当世風に描いた「見立河内越図」と呼ばれる一連の作品から成立したものとしている。   原文から抜粋